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命の名前

 銀行は、混みあっていた。
 開店してじきに入ったけれども、一時間は待ってくれと言われた。ネットではできない、煩雑な、書類の手続きなのだ。
 彼は、ソファに尻をしずめた。
 ラックにあった、個人年金や教育ローンのパンフレットを斜め読みした。おもしろくもなかった。本も、家に置いてきてしまった。
 長い九州出張が、昨日終わった。
 疲れている。
 体は重たい。
 このまま、居眠りしてもいいのだが――
 しかし。
 彼は、子どもの名前を考えようと、ブレストに時間を使うことにした。
 そうだ、子ども。
 間もなく生まれるのである。
 考えれば考えるほど、ふざけた方向へいった。
 5月に生まれるから、皐月とか、五月でもよいのだ。いっそ、五月生と書いてサツキと読ませてはどうか。
 第一子だから、一番乗と書いて、イチバンノリはどうか。と、思ったけれども、これでは男の子だ。親にとって子は宝だから、宝船ほうせん。お金に困らないように、金が豊かな寺、金豊寺きんぽうじ。彼の名前と合わせて宇宙が生成されるように、宇子ひろこ。神の加護があるように、加護子かごね。グローバリー・ベンジャミン。
 これらの案は、すでに、妻からどれも却下されていた。薬中か、狂人を見る目であった。
 それなら、いっそ花子とか、みどりとか、さやかとか、季節にちなんだシンプルなものにするか。いや、そもそも自分の名前なんだから、本来は自分で考えるべきなのだ。親が名付ける幼名と、長じてのち自ら名付ける実名とがあるべきなのだ。
 結局、彼に妙案は浮かばなかった。
 収穫があるとしたら、もはやだれかに頼んだほうがよさそうだ、という気付きであった。
 そのまま、眠ってしまった。
 眠って――
 番号が呼ばれた。
 寝ぼけまなこで、窓口へ進む。
 顔見知りの担当者。
「じゃ、まずお名前から」
「はい」
 彼は、ペンを走らせる。
 苗字を書いて――
 だが。
 ペンは、そこで止まってしまった。
「どうされました?」
 担当者が、彼の顔をのぞきこむ。
「ご本人様のお名前で結構ですよ」
「…………」
 名前が思い出せない。
 自分の名前が。
 名前――
 なんだっけ?
「どうされました?」
 担当者が、また言った。
 彼は、愛想笑いを浮かべ、机上のキャッシュカードを引き寄せた。当然、そこにはフルネームがあるはずだ。
 だが――
 カタカナであった。
 これでは、名を漢字で書けない。
 とうとう、彼は財布から運転免許証を取りだした。
 それを書き写すさまを――
 行員は、にやにや笑いながら見ていた。
 はっと顔を上げると、行員の顔は、彼の見知っているものではなかった。
 スロットのように、目鼻や口が、猛スピードで切り替わっている。
 異形の者の、容貌なのだ。
 ひゃあ!
 わめき、彼が椅子から転げ落ちたところで、夢は終わった。
 彼は、ソファに座っていた。
 順番など、まだきていなかったのだ。
 そろそろ、名前を考えなければ。
 正子。沙耶子。明子。すみれ――
 現実の彼は、夢の中の彼よりも、ずっと生真面目であった。
 
 

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