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 女友達が手洗いへ立ったあと、松岡は妙な話をはじめた。
「これ、グーグルのストリートビューなんだけど」
 空になったグラスを脇へのけてから、すっと突き出したスマートフォンの画面には、昔、松岡の住んでいたアパートの画像が示されていた。
「昔の――お前のアパートじゃないか」
「ああ。で、最近気がついたんだけどよ」
 松岡は、彼の住んでいた二階の、道に面した窓を指さした。
 磨り硝子ごしに、人影があった。
 おかっぱのように短く切り揃えた髪。
 白い肌。
 子どもか大人かわからないが、女であることはまちがいなかった。
「人が映っているな」
「ああ」
「日付を見てくれ。二〇一三年の八月。おれたちが大学三年のときだから――」
「お前が住んでいたころのものだな」
「ああ」
 こんな酒席で、松岡が急に神妙な顔つきになった理由がわかった。
 自分の見ず知らずの女が、自分の家の窓に映っている、正確には、映っていた、ということを気味悪がっているのだ。
「この間、ふと思い立って、初めてアパートのストリートビューを見てみたんだ。あれは、撮影時期を遡ることができるだろう? それでわかったんだよ」
 自分の留守中に、不動産屋とか、アパートの家主が部屋に上がり込むなどということが、あるかどうか。きっと、断りくらい入れるだろう。松岡には、見覚えがなかった。もちろん、当時付き合っていた恋人とも、まるで容姿が異なっていた。では、この女の人影は一体なんなのか。
「お前、浮気してたんじゃないか?」
「は」
「お前もだいぶ遊んだからな。忘れただけで、もしかしたら……」
「ばか。そんなはずないだろ」
 真顔で抗弁した。
「お前、おれの気持ちにもなってみろよ。昔の家といったって……いやなものだぜ。はっきり言うが、要は、心霊写真じゃないか」
「ま、まあな」
「おっかねえよ、いざ、こういうことが起きるとよう」
「どうしたの、二人とも」
 女友達が帰ってきた。
 松岡もぼくも、話はこれでやめにした。
 しかし、翌日、ぼくは妙なことを思い出したのだった――。


 宿酔から醒め、ようようなにか始めようと思えたころには、土曜の、昼過ぎになっていた。
 ぼくは、ふいに松岡の言っていた、あのアパートの女のことを思い出した。別に、あらためて見てみても仕様がないのだが、ぼくはアイパッドで、ストリートビューを開いてみた。昨日より、三倍ほど大きな画面で、松岡の古いアパートを遡ってみると、なるほど二〇一三年八月の記録写真には、女の顔が、ありありと映っていた。道向きの小窓は、床から少し高いところにあり、それだけに、女が窓の前に立って、顔だけ見えていると考えるのが自然だった。いっぽう、どうして女が松岡の部屋にいるのかは、どこまでいっても解せなかった。
 ぼくは、はっとした。
 その驚きは、いくらか遅れてやってきた。
 もしかしたら、自分は、この女を知っているかもしれない。
 とっさに思い出せなかったのは、その女が、夢に現れた女であったからだ。
 いつ見た夢であるかも思い出せないが、ここ数年のうちではない、それこそ、学生時代に見た夢だったかもしれない。
 瓦礫の中に、ぼくはいた。
 ほとんど石の海のような中で、ぼくはもがいていた。建物が崩れて、下敷きになったらしかった。
 幸い、命だけは助かったらしいが、身動きがとれない。
 夜だった。石と石の間からかすかに上を見上げると、月が出ていた。夜なのだ。うう、うう、という呻き声が聞こえた。ぼくのほかにも、まだ人が埋まっているのだ。
「助けてくれ!」
 ぼくはわめいた。
「だれか、助けてくれ! おれはここにいる!」
 助けはこなかった。ぼくがわめくたびに、埋められた人々の、うう、とか、おお、とかいった呻きは強くなった。まるで、ぼくに助けを呼ばせまいといいたげに。
「助け――」
「おお!」
「誰か――」
「うおお!」
「ううおお!」
 そのとき。
 白い、紐のようなものが見えた。
 ぼくは目をぱちくりさせた。
 白い、それ単体で光を放っている、綱だ。それが、瓦礫の中を、ふしぎに、すうっと透けるようにして、しゅるしゅると、上からこちらへ垂れ下がっているのであった。
 ぼくは、ほとんど反射的に、ぎゅっと綱を握りしめた。
 すると、綱はぐいぐいと引っ張られ、ぼくのからだは、瓦礫の中を、透明な、幽体のような存在として、ふわあっと通り抜けていった。気がつくと、ぼくはどこかの、倒壊した、赤茶けた瓦礫の山の上に立っていた。
 そして、そこにあの女がいた。
 女は、ぼくの顔を見つめていた。
 乾いた、悲しげで、さみしげな表情で――


「なあ、平田」
 数日のち、松岡から電話が掛かってきた。
「どうした?」
「例の、窓の女の顔なんだけどよ」
 ぼくは、いやな顔をした。
 数日は、あの話を、意識して頭の中から追いやっていたところだった。
「あれ、撮影が八月だったろう?」
「ああ」
「四年の八月といえば、結構、お前うちに泊まりに来ていたよな」
 それは、そのとおりだった。
 当時、松岡もぼくも、公務員試験を受けていたから、勉強合宿をよくやったのだ。それだけでなく、松岡のアパートが、駅にごく近いものだから、民間の、滑り止めの就職試験を受けにいく際に、前泊に似たかたちで世話になったことが何度かあった。
「あのさ、あれからいろいろ考えたんだが、むしろお前が、あの女に見覚えがないか?」
「む――」
 松岡から訊かれない限り、黙っておこうと思ったのだが……
 これを機に、ぼくは、正直に夢のことを話した。
 写っている女に見覚えがあること。
 それは、昔見た夢に出てきた女であること。
 女が、瓦礫の下敷きになった自分を、助けてくれたこと……
 すると、松岡は、はっと、なにか思い出したようだった。
「どうした?」
 松岡は、ふう、と一つため息をついて、
「お前、長崎のロザリオ持っていただろう」
「ロザリオ――」
「ほら、当時付き合っていた彼女、ほら、加藤さんとかいった、あの子から土産を貰って喜んでいたじゃないか。長崎のロザリオ」
 あった。
 十字架のペンダントだ。
 当時の恋人が、友だちと旅行に出かけたときに買ってきたもので……
 たしか、雑貨屋だか骨董屋だかで買った、一点ものだと言っていたのだ。
 首から下げるのは妙だから、リュックサックのリングに、キーホルダーのように括っていたものだが……
「瓦礫というのを聞いて、なんだか鳥肌が立ったよ。長崎だろう? そうすると……わかるだろう? 平田」
「うむ――」
 ロザリオがいまどこにあるか、ぼくにはわからなかった。
 捨てた、という記憶はない。
 しかし、引っ越しのときに紛れて、なくなってしまったかもしれない。
「それからな、平田」
 松岡は、言いにくそうだった。
「なんだ?」
「あらかじめ謝るけど……じつは、お前の、いまのアパートを見てみたんだよ」
「……うん」
「そしたら……なあ、わかるだろう? 平田」
「…………」
 松岡の言いたいことは、十分わかった。
「ああ」
「きっとあるよ。探して……なにか、してもらったほうがいいんじゃないか?」
 電話は、それで終わった。
 ぼくは、背後を振り返った。
 部屋の決め手だった、広い収納スペース。
 引き戸を開けると、そこには、うずたかいダンボール箱の山。
 まるで瓦礫のように、敷き詰められて……
 
 

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