見ている景色の半分は自分でできていて、それが全て事実とは限らない

 本日の夕方ごろ、宮崎の日南付近を中心とする場所で地震がありました。

 今回の地震の発生を知ったのはネットサーフィンをしていて目に入ってきた「南海トラフ地震臨時情報」の文字がきっかけでした。私の住んでいる地域は今回の震源からは離れているので直接揺れを感じることはありませんでしたが、私がちょうど夕飯を作っていた時間だったので現地でも火を使っていた方などは多かったのでは無いでしょうか。自身の規模はマグニチュード7.1、震度は日南市で6.1とのこと。数字だけ見れば立っていられないくらいの揺れがあったようなので、現地では怖い思いをされた方も多かったかと思います。

 毎度、地震のこととなると心にさざなみが立つのですが、今回も「南海トラフ」の文字で、「ついに来てしまったか」と私は危機感を覚えました。結果から言うとそれはまだ起こっていなくて、「懸念されるので備えをしっかりしておきましょう」と言う注意喚起だったわけです。

 私のようなせっかちな人に向けてかも知れませんが、報道がかなり気を遣った言葉遣いをしていると感じました。コロナの時しかり、原発事故の時しかり、不安というものは情報の捉え方を歪めてしまいます。それは危機に対する本能的な反応で、ヒトが長い時間を生き抜いてこれたのはその危機感を感じる力があったからです。しばらく前まで、自分で住んでいる地域以外で起きた災害や生命を脅かす事件のようなものは、情報の重みとしては小説や御伽噺のようなフィクションと大差ないものだったのかも知れません。そんな中で700万年ほど前から今までやってきたヒトが、ここ数十年のせいぜい3,4回の世代交代で対応できるはずもありません。しかし、それから生じるヒトの行動が実際の災害よりも悪い影響をもたらしてしまう事例も散見されます。それを少しでも緩和しながら伝えようと言う意図が感じられて、報道の言葉の選び方や気の遣い方がありがたい。

 一方、この情報を日記としてネットの海に投げ込むこと自体に疑問を感じながら私はこれを書いています。自分の見ている情報を素材に、自分の頭の中に世界を作り出し、その世界の香を纏った情報を吐き出す私。空気を吸ってそれを素材に少し二酸化炭素の分量が増えた気体を吐き出すみたいに。

 こう言う時はいったん考えるのをやめて、家具を固定したり、非常食を確認したり、体操したり…ちびちびと体を動かして不安をぼかすのが適当かも知れません。


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