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理系っぽいよね

ここ数年やたらと理系っぽいよねと言われる。最初は、勉強している領域が工学やら情報学やらで見た目の印象とかも相まってそう見えているのだろうと思っていた。(メガネはしてないよ。)しかし、顔もよく知らないSNSの相手からも言われるようになって明らかに違う要因があるのだと気づいた。


先日、Twitterで某小学生YouTuberが過激な内容の動画をアップしたとかの記事を読んで見にいった。内容はまあ案の定であったが、コメント欄がもう自分の意見の押し売りのバーゲンセールといった感じであった。ここで、一つ疑問に思う。仮に自分がこの立場だとしてどのように考えるのだろうと。


議題は「学校に行く際に染髪やアクセサリーの装着が許されるか」といったものである。コメント欄を見ると「学校は社会性を学ぶ場でもあるから校則に従うべき」とか「学習するのに関係のない要因だからいい」みたいな内容が見た感じ多そうだ。


私はこの件に関して特に結論は出していない。(まあ出していたとして世に公開する場所で発言をしないと思う。)ただ、考える時にする材料として一番はじめに注目したのは各国の学力水準と学習スタイルの相関だった。

ーーーー蛇足ーーーー

ちなみに世界の学力ランキングとしてOECDという組織の作ったものでは、子供の平均学力や教育の受けやすさ等を総合的に判断してフィンランドが1位で、教育姿勢はかなり自由。小学生から髪染めてるし、寝転がって授業受けてもいいとこもあるとか。だからといって、全てに優れているわけでもなく単純な平均点だと1位は日本だったりする。

似たようなランキングはいくつもあるので、テスト内容とかによって誤差は生じるだろうからどこまで信用できるかはわからない。まあ結論出すの難しそう。

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そんな感じで調べてフィンランド自由でええなあとか思っていあた訳であるが、ここでなんで調べて証拠を出さずに意見できるのだろうとあのバーゲンセールワゴンに対して思う。しかし、そう思う時は常に写し鏡。逆に私の考え方こそ意味がわからない、論理的に自分が正しいと思われるかもしれない。そう考えた時に、自分が正しいと考えるための基準がデータとそこから導き出される結果なのだと自覚した。


世の人には様々な基準があるだろう。法律が基準の人、利益が基準の人、宗教が基準の人、恋人が基準の人、感情が基準の人。一つだけでなく複数を組み合わせる人もいるだろうが、私にとってはこのデータ解析的な基準がどうも結構なウェイトであるようだ。


これが普段の態度や言動に出ているのであろう。理系っぽいと言われる訳だ。なんだか凝り固まった思想のような気がして嫌になってきた。もっと大雑把に考えよ。ウェーイ。


なぜこのような基準に至ったのであろう。冒頭に書いたが理系っぽいと言われ始めたのはここ数年、具体的には大学生に入ったあたりだろうか。高校生の時には言われた記憶がない。高校の時には、確かにもっと雑にいろいろ考えていた。何が基準だったのか。多分周りの友達である。当時は毎日が楽しければいい、そう考えていたし欲しかったのは青春を感じさせる何かだったのだろう。だから、この時は多数決こそ最大の解決法だと思っていた。


この後に考え方の転機があったとしたら、十中八九浪人生活だろう。確かに周りに友達はいたが、ここで皆と足並みを揃えるのは競争と言う場で死を表す。現役受験生の時からそうすべきなのではと言う正論は全くその通りなので無粋です。そのために友達の意見は自分の行動計画を考える時にあまり聞かなかった。太鼓の達人に誘ってくれたのにあの時はごめんな。


やったことはとにかくテストして結果分析、できない場所を潰す。結果合格したから、目標に対して間違った方針ではなかったと思う。この成功体験がその基準が自分の学習分野も相まって今の自分に染み込んでいったんだろう。


就活終わった後に自己分析ができた訳だが、この基準は形を多少変形させつつも芯は現実世界とおさらばするまで消えないだろう。そんな気がする。つまり一生理系っぽいと言われ続ける。もうアイデンティティとして受け入れるしかないようだ。


ただ、いろんな基準を知りに行くことはできるだろう。なので、とりあえず理系の反対を探しに村上春樹のノルウェイの森を買った。ちゃんと読むかを知らないが少し文系っぽい文章になったら文豪に感謝します。


まあこの後ゴリゴリに理系の話を書く予定です。







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