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高松奈央という名前を使い始めて早数日。
今回は実名で歩んできたこれまでの人生を書いてみます。
北国に住むある女性のこれまでの35年ほどの人生についてなので面白みはないかもしれないですが、私のこれからを知っていただくにはちょっとした材料になるかもしれません。

今までのわたし、ダイジェスト


大きな転機が訪れたのは3年前の35歳のとき。2人目の子を出産した時でした。
普通に大学をでて、就職し、結婚し、収入面での心配を持ちたくないという思いから共働きで仕事を続けてきました。
希望した時に子供を授かることができず不妊治療をしたりと、一般的にいう挫折も一応経験しながらの人生でした。
今回は自分の中でも大きな転機が訪れるまでの人生を7年ごとに分けて簡単に書きます。
7年ごとに分けた理由は35年間をちょうど割り切ることができたこと、脳科学者の先生が脳は7年周期で進化するとおっしゃってことから、それに倣って7年にしています。

0歳から7歳まで

父親は地方公務員、母は専業主婦の家庭に生まれました。3歳の時に弟が生まれましたが「お姉ちゃん」という役割をうまく担えず、一人っ子状態を続けていた記憶があります。
大人からは「おとなしい子」という印象を持たれていたようですが、自分としてはすぐに感情や言葉を出すことができず、まわりの様子をうかがいながらその時起きている出来事を自分の中のデータベースに蓄積してきたような感じです。
そのデータベースの中の物事を組み合わせて表現したり行動したりするので、どうしても時間がかかっていました。
直感が働くまでのセンスもない、だからといってものすごく慎重派な訳でもなく、納得がいく根拠がないと行動できないだけ。それにはデータベースが必要、ただそれだけでした。
ちなみに4歳から幼稚園に通いましたが、3月生まれでまわりの子よりも幼かった私は、まわりの子が自分より発達した様子をひたすら見ながら、その様子を自分のデータベースの情報として蓄積することばかりしていました。
結局まわりの子よりも大人しく、行動や発言が遅い女の子でした。

8歳から14歳まで


小学校に入り毎日2キロの通学路を往復することで体力もつき、歩きながら頭の中が整理できるようになったためか、四六時中データ集めをすることから卒業し、やっと「自分」を楽しめるようになってきました。
家の中で本を読んだり工作をしたり、仲良しのお友達と近所の公園で遊ぶ中で、自分のデータベースからアイデアを練って実践する楽しさを覚えたのもこの時期でした。
一方、学校の勉強は早生まれの影響もあってでしょうか、最初はついていくのがやっとでした。しかしデータベースを使って物事や勉強をするようになってからは、成績も上がり、その先を目指せるようになりました。
外見に自信がなかったこともあり、女性でも大人になったら自分の力で身を立てたいという思いがあり、高校は地元の進学校に進学しました。

15歳から21歳まで

高校では、自分より学力だけではなく見識も広い仲間がたくさんいました。
自分も自らの枠を広げたいと思いながらも、自分の確固たるデータベースがないと進められない性格。
流れに任せながらも小学校の頃から同級生に誘ってもらった部活が自分には合ったのか全エネルギーを注ぐ日々。
大学は具体的な進路が決められず悩んだものの、興味のあった商学系の大学に進学。
就職率がウリの学校だったので、今は何も持っていない私でも卒業する頃には何にでもなれるかもしれないという、ある種妙な自己肯定感のもとに進学しました。
ちなみに、データベースに受験勉強に関係ない情報をたくさん詰めこんでいたせいか、受験勉強は周りの友達よりも時間をかけなければなりませんでした。
大学では家を離れて一人暮らし。
暮らした街のことを深く知りたくて、いろいろなところを歩き回り、もう少し範囲を広げたくなってその土地の四季や自然を探究したいと思い山岳部に入ったり、じわじわとデータベースを構築する日々。
親に黙って車を買い、地元のことを知り尽くすためにほとんどの時間を使ったような感じです。
おかげで大学生を過ごした土地については詳しくなりましたが、世界を広げようとすることができず、留学やインターンシップなどには興味が向きませんでした。

22歳から27歳まで

金融機関に就職しました。
お恥ずかしい話ですが、決め手は週休2日制だったことと程よく転勤があったこと、女性でも職種の限定がなかったことです。
今までの自分のデータベース集めのペースを崩すことなく、そして転勤で自分が予想していなかった土地に暮らせるからという理由で決めました。いや、大した理由なんてなく無意識だったかもしれません。
今まで仕事を通じてお世話になった方々には大変申し訳ないのですが、仕事の内容は1番の志望理由ではありませんでした。
ありがたいことに、就職当初は想像もしなかった本部勤務も経験することができ、社会人の駆け出しとしては非常に充実していた時期でした。
しかし何気なく受診した婦人科系の検診で異常が見つかり、仕事と治療の両立や、将来子供を持つことを諦め治療をやめるかの選択で悩んだ時期もありました。
そんな日々を少しずつほぐしてくれたのは、当時付き合っていた、現在の夫でした。


28歳から35歳まで


この頃一番遠距離の転勤をしました。
そこは私の生まれ育った街。偶然にも夫が大学時代を過ごした街。
そしてそこは夫が将来のキャリアを考えて転職を決めた先がある街。
夫と2人で地元に帰ることになったのでした。
2人の関係は自然に結婚に向いたけれど、お互いの転職と転勤、職種変更で環境に慣れるまでに時間がかかり、結婚したのは戻ってからおよそ2年経った29歳最後の月でした。
結婚すると、婦人科疾患の経歴があった私はすぐに不妊治療をはじめました。
望むようにいかない中で、自分と周りを比較しては傷ついたり、心も身体もすり減らして治療に向かっていました。夫からは無理をしなくていい、2人で楽しむ人生だって素晴らしいと何度も何度も声をかけてもらいましたが、子供を諦めきれなかった私は夫と心を合わせながら、夫に支えてもらいながら生きていました。
そんな私のところに息子が来てくれて母となれたのは33歳の時でした。
やがて仕事にも復帰し、念願の家も建て、これからというときに2人目の子を授かったことが私の転機になるのでした。

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