見出し画像

#29 三嶋明神と三島宿

三嶋明神の門前町

三島は三嶋大社の門前町として古くから栄え、伊豆の中心であった町だ。東西を結ぶ東海道と南北を結ぶ下田街道・甲州道との交差する交通の要衝であった三島は、さまざまな地域の文化や産業の交流地点でもあった。
三嶋大社は、伊豆半島の基部、三島市中心部に鎮座する。
境内入り口の大鳥居前を東西に東海道、南に下田街道が走る。
周辺は伊豆国の国府があった地。
中世に入ると、伊豆国の一宮として源頼朝を始めとする多くの武家からの崇敬を集めたそうだ。

江戸時代の三島は江戸幕府の直轄地となり、1759年(宝暦9年)までは伊豆国統治のための代官所が設けられていた。

三島宿

1601年(慶長6年)、三島宿は日本橋から数えて第11番目の宿駅に指定された。東見附は神川(今の大場川)にかかる新町橋のたもとにあり、石塁式の土手に囲まれた枡形見附だったそうだ。
西見附は江戸時代初期には源兵衛川石橋(現、広小路付近)のたもとに設置されていたが、1711年(正徳元年)に千貫樋付近に移転している。近くの秋葉神社の土台になっている石垣が西見附の遺構だったそうで、この見附も枡形見附だったそうだ。
南見附は下田街道の言成地蔵付近にあり、北見附も存在していたらしいが、場所ははっきりしないそうだ。

宿場は、箱根宿からは3里28町(14.8km)、沼津宿までは1里5町(5.9
km)の距離にあり、日本橋からは28里27町(112.9km)の距離にあった。

天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」では、総家数1,025戸、宿内人口4,048人(男1,929人、女2,119人)で、本陣2軒(世古本陣、樋口本陣)、脇本陣3軒(銭屋、綿屋、大和屋)、旅籠74軒、問屋場1軒の構成だった。
箱根という難所と接する宿場だったこともあって本陣・脇本陣が5軒と多く、旅籠の数も多い宿だった。
宿場は、伝馬、久保、小中島、大中島の4町が宿の中心地で、運営もこの4町が核となり行われていたそうだ。 

江戸時代には、現在の三島市役所中央町別館のところに問屋場があり、東は箱根を越えて小田原、西は沼津まで人馬継立による荷物の輸送を担当した。
三島の伝馬役は往来も多く、箱根の坂道をひかえていたので大変な苦役だったそうで、周囲の村々の助郷も得て対応していた。

三島代官所

小田原の後北条氏没落により徳川家康が関東移封となったのは、1590年(天正18年)のこと。
徳川の直轄地とした伊豆には、家康は直ちに三島代官所をつくり、伊豆の統治を始めた。初代代官は伊奈忠次が登用され1601年(慶長6年)までの12年間、三島代官として伊豆の治安と民生を司どった。
三島代官所は、1759年(宝暦9年)に韮山代官所に併合されるまで169年間存在し、21名の代官が勤めた。

韮山代官所の管轄になってからは三島陣屋が1871年(明治4年)の廃藩置県まであった。現在周囲に残っている石垣の一部は、当時のものといわれている。三島陣屋でも治安と民生の事務っていたそうだ。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション( https://dl.ndl.go.jp/pid/1309897)を加工して作成

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?