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#28 なぜ箱根は宿場設置が遅れたのか?

街道付け替え

江戸時代以前の中世の東海道では、箱根山を越えるルートは現在の箱根八里ではなく、「湯坂路(ゆさかじ)」と呼ばれる尾根伝いの道が使われていたそうだ。
このルートで京から東国に下る場合、箱根峠を越え芦ノ湖を経て、鷹巣山、浅間山、湯坂山の尾根を伝って箱根湯本へ下る山越えのコースだったそうだ。
江戸時代の東海道の道筋は尾根筋から谷筋に経路が変更され、東南側の須雲川の谷間に新しい東海道を築かれた。

箱根路のルート設定の意味合いについては、険しい箱根山を江戸防衛の要として、三島側の西坂は関東に侵入する敵を発見しやすい尾根筋、小田原側の東坂は外敵を迎撃しやすい谷筋に経路がとられたといわれている。

芦川宿

1601年(慶長6年)に江戸幕府が伝馬朱印状を東海道筋の宿場に配布した際、箱根宿は対象の宿場として入っていなかった。
当時、箱根には芦ノ湖畔に「芦川」という宿場があったという。芦川はもともと箱根神社(箱根権現)に奉納する品物を作る人たちの集落だったそうで、箱根権現の門前町だったらしい。

当初は芦川宿に朱印状を渡す予定だったらしいが、芦川宿はこれを断っているという。
やはり、宿場で伝馬人足を揃えることが厳しかったということだろうか。
今のところ、江戸幕府の当初の伝馬の要請を断ったことが知られているのは、東海道中ではこの箱根の芦川宿のみということらしい。
箱根宿が出来るまでの17年間の間、小田原宿と三島宿は8里もの距離の山道の伝馬役を負うのは大変だったことだろう。

ちなみに、小田原宿も三島宿も両隣の宿場が記されている「御伝馬之定」という文書が見つかっていないそうだ。
焼失の可能性が高いそうだが、両宿の当時の隣の宿場が何処と規定されていたかがわからなくなっている。

箱根宿

東海道五十三次の10番目の宿場である箱根宿は、1601年(慶長6年)正月に徳川家康が定めた宿駅伝馬制により、遅れること17年後の1618年(元和4年)に東海道の宿場町として設置された。
宿場は、小田原宿と三島宿からそれぞれ50軒、約600名を移住させて作った宿場とのことで、旧箱根宿の中心部には字名で小田原町、三島町の名前が残っている。
宿場は、小田原宿からは4里8町(16.6km)、三島宿までは3里28町(14.8
km)の距離にあり、日本橋からは24里35町(98.1km)の距離にあった。

宿場は、江戸側から「新谷町」「新町」「小田原町」「三島町」「芦川町」の五町で構成され、新谷町と新町の間に箱根関所が置かれていた。
箱根宿のうち、三島町、芦川町は幕府直轄の天領とされ、韮崎代官所の管理下に置かれた。一方、小田原町、新町、新谷町などは小田原藩領とされ、箱根関所も小田原藩が実際の管理運営を行った。

天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」では、総家数197戸、宿内人口844人(男438人、女406人)で、本陣6軒、脇本陣1軒、旅籠72軒、問屋場2軒の構成だった。
本陣が6軒もあったということは、参勤交代の大名達も箱根越えの道の険しさに難儀した証なのだろう。

畑宿一里塚

畑宿一里塚は箱根旧街道杉並木の入口にあり、江戸から23番目の一里塚で、日本橋からの距離は、96kmに位置する。
1998年(平成10年)に復元された現存する貴重な一里塚のひとつ。
塚の頂上に、畑宿から江戸から見て右側の塚には樅(もみ)の木が植えられ、左側の塚には欅(けやき)の木が植えられている。

箱根の関所跡

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