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【街と街道を歩く】初音の森と馬喰町

1月3日、正月三が日の午後、馬喰町と小伝馬町を歩いてみた。
いずれも江戸時代から続く町。
江戸の名残りを求め歩いた。

初音の森と初音森神社

馬喰町は、幹線道路、国道6号線(江戸通り)が通り、地下には総武線が走っている。
2ブロック南を走る昔の幹線道路、本町通りとは対照的に交通量の多い、都会の喧噪のただ中にある街に変貌している。

徳川家康が江戸に入府した1590年(天正18年)頃の馬喰町一帯はどんな風景だったのか気になったので調べてみると、以下の情報が出てきた。

「日本橋馬喰町から東日本橋にかけての一帯には、かつてウグイスの鳴き声が響く「初音の森」が広がっており、鎌倉時代末の1330年頃に森の鎮守として祠(ほこら)がつくられたという。」

ウグイスの鳴き声が響く鎮守の森って、どんな景観だったのだろう。
木々が生い茂る村の鎮守。
緑豊かな長閑な自然環境があったのかなと想像する。
できることなら、過去にタイムトラベルして歩けたらと思ってしまう。

中央区東日本橋の浅草橋にほど近い一角にある初音森神社
初音森神社の御由緒によると、創建は元弘年間(1331年~1334年)で、文明年間(1469年~1486年)に太田道灌により社殿が造営されたとされている。
明暦の大火や関東郡代の屋敷造営などで社域がかなり変わってしまったようだ。

国道6号線沿いの馬喰町

初音の馬場と博労町

1551年(天文20年)には初音森神社の社前に馬場が整備されたそうだ。
馬場の名は「初音の馬場」。
ネットで「初音の馬場跡」を検索してみると、国道6号線の西側の日本橋馬喰町一丁目8番付近と表示される。
鎮守の森の西側に整備された馬場ということのようだ。

1590年(天正18年)、家康が関東移封によって江戸入りすると、博労頭として高木源兵衛富田半七が現在の馬喰町に居住して馬場を管理することとなり、一帯は次第と博労町と呼ばれるようになったという。
「数百頭の軍馬」を管理していたそうだ。
現在の馬喰町に町名が改められたのは正保年間(1644年~1648年)だったそうだ。

徳川家康は関ケ原の戦いという大一番を前に、先勝を祈願して馬揃え(兵馬を一カ所に集めて鑑賞する武士の行事)という重要な行事を「初音の馬場」で行ったと言われている。

初音の馬場での馬揃えはどんな感じだったのだろうか?
数百頭の軍馬が参加する軍事パレードだったのだろうか?
馬揃えでどんな行事が行われたのかまだ把握できていないので、折を見て調べてみようと思う。

馬喰町駅周辺

馬喰町

1657年(明暦3年)の明暦の大火の後、浅草橋に関東郡代の屋敷が建てられ、郡代屋敷を訪れる人々のための旅館街が形成されたという。
また、訪問者向けの土産物の商家や、すでに問屋街であった隣町の横山町の影響で、馬喰町も問屋街として発展したとされている。

1世紀余りの時を経て村の鎮守から城下町江戸の商業地区に変貌した馬喰町。
そこから、さらに300年以上の時を経過して、交通量の多い幹線道路とビル群に覆われた大都市の一帯になった。
歩いてみると、交差点や駅の入口に馬喰町の文字が見える。
舗装された通りが当たり前のように感じてしまうのが都会の道の特徴かもしれない。

近年は、中小雑居ビルがマンションに建て替えられ、若い世代が多く入居して人口も増えている地域だそうだ。
現在の馬喰町は、世帯数1,528戸、人口2,281人とのこと。
現代のライフスタイルにマッチした街になったということなのだろう。

1月3日の人通り

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