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【街と街道を歩く】小伝馬町と蛎殻銀座

1月3日、馬喰町を歩いた後、小伝馬町と人形町(旧蛎殻町)、大丸新道にも足を伸ばした。

江戸府内の伝馬御用の町

小伝馬町は、名主、宮辺又四郎が伝馬役を司ったことに由来する町だ。
小伝馬町の名前の由来については、大伝馬町に対して、扱う馬の用意が少なかったことから小伝馬町という名になったという説がある。
大伝馬町と南伝馬町が主要街道での宿継を務めたに対して、小伝馬町は江戸府内での伝馬御用を務めた。

小伝馬町は、江戸時代には旅人宿が多く出来、賑わった町であったが、一方で、繊維問屋金物問屋も多く連なった町だったという。
このあたりは、東に隣接する馬喰町と同じ傾向がある。

現代の小伝馬町は、馬喰町と同様、地上には国道6号線が通り、地下には総武線と日比谷線が通る利便性に優れた街になっている。
オフィス街であるが、江戸時代と同様に衣料品や服飾雑貨、小物問屋業の企業が非常に盛んな街と言われており、400年以上も町の主要産業はあまり変わっていないということのようだ。

幹線道路とビル群で覆われた街。江戸を感じるのは地名と案内板ぐらい。

現代の小伝馬町

小伝馬町牢屋敷

牢屋敷は江戸時代に未決囚を収監し死刑囚を処断する施設として設置された。小伝馬町には慶長年間(1596年から1615年)に移設されたという。
牢屋敷があった場所は、現在の日本橋小伝馬町3丁目~5丁目にあたる位置で、2,618坪(約8,639平方メートル)の広さがあった。
1875年(明治8年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで使用されたという。
270年の間に数十万人の囚人を収容したとされている。

牢屋敷があった地は、現在は建ち並ぶビル群と十思(じっし)公園になっている。

十思公園には、吉田松陰終焉の地の石碑もあった。

牢屋敷の責任者は、囚獄(しゅうごく)と呼ばれ、大番衆の石出帯刀(いしでたてわき)が代々世襲したという。
牢獄の責任者という厳しい職業を世襲で続けたことに厳しさを感じる。

小伝馬町牢屋敷があった十思公園

蛎殻銀座

せっかくだったので、気になってた蛎殻銀座(かきがらぎんざ)と大丸新道にも足を伸ばしてみた。

蛎殻銀座は、江戸銀座で発覚した不正が発端となり、1801年に蛎殻町(現在の人形町)に移転となったという。
19世紀の古地図を見ると、「銀座 上納改役 大黒常是」とあり、4,847坪の敷地が記載されている。
現在の日本橋人形町1丁目5・6・7・17・18番地域にあたる。

現在の人形町には商業店舗が建ち並ぶ地になっている。
銀座の面影はない。

蛎殻銀座があったところ

大丸新道

大丸とは江戸時代以来下村家の木綿呉服店の屋号だそうだ。
1717年(享保2年)、京都伏見の京町で初代彦右衛門が興した古着商「大文字屋」が始まりで、江戸出店は1743年(寛保3年)だったという。
開店するとたちまち評判となり、2年後の1745年(延享2年)と1735年(宝暦5年)に店の敷地を拡大している。
その後も店舗の拡大が続き、寛政年間(1789年~1801年)には間口36間、奥行26間の1,000坪近い巨大店舗となって、店の裏に「大丸新道」という新しい道路ができるほどにまで繁栄を遂げ、錦絵や川柳の題材になるほどの人気を博したとのこと。

大丸新道は、本町通りの一本南にある裏通りだ。
落ち着いた佇まいからは、江戸時代の大丸周辺の活況の状況を想像しずらい。

現在の大丸新道

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