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【街と街道を歩く】東海道を歩く(原宿~吉原宿)その1

2023年6月中旬の週末、旧東海道を原宿から吉原宿までの大凡17kmを歩いてみた。
当日は天候に恵まれ、終日富士山を眺めながらの歩行となった。

西木戸(見附)跡

JR原駅から歩き始め、旧東海道筋に出てしばらくすると、原宿の西木戸(見附)跡に遭遇した。
西木戸(見附)跡の碑には、「原宿は現在の西町、東町、大塚本田の三町で形成され、西と東の境に木戸を設けて、宿場の入口にした。」、「東木戸から西木戸まで、即ち原宿の距離は660間(2.2km)あった。」といった記載があった。
しかし、660間だと1.2kmのような気が・・・。

原宿の西木戸(見附)跡の碑

沼川第二放水路

西木戸(見附)跡から10分程歩いて新田大橋に到達。
流れている川は、放水路とのこと。
浮島沼一帯は、愛鷹山麓の川からの水が流れ込み、沼川を通って吉原湊(現在の田子の浦港)に流れ出たが、標高差がないために排水が悪く、たびたび湛水(たんすい)被害を起こしていたそうだ。
放水路は、浮島沼にたまる不要な水による湛水被害を防止するために開削された放水路の一つだそうだ。

沼川第二放水路

一本松一里塚跡

新田大橋から西へ約340m程歩くと民家の入口に、日本橋から数えて32番目の一本松一里塚の石碑が建っていた。
日本橋からの距離は、130kmあまり。
塚については、南北ともに残っていない。
写真に写る民家の木が紛らわしいようで・・・。
掲載の仕方が悪くて済みません。

一本松一里塚跡

植田三十郎の墓

植田新田は、遠州浪人の植田三十郎(生年不詳、寛文8年(1668年)没)を中心に堤防を築き干拓を計られたが、泥の浮動のために干拓は困難を極め、不成功に終わったそうだ。
その後、宝暦年間(1751年~1764年)に今井村の六郎左衛門の手で、再び新田開発が進められた。村名は開拓の恩人の姓を取り、植田新田と名付けられたとのこと。
三十郎の墓は、安永7年(1778年)9月に一族の手で、彼の開基とされる神護寺内に建てられたが、神護寺は幕末に廃寺になったそうで、現在は東海道線の植田踏切の南側にある。

江戸時代までは、冨士山の周囲の湖は富士八湖と言われ、そのうちの一つが須戸湖(浮島沼)だったのだそうだ。

植田三十郎の墓
植田踏切前から眺めた富士山

間宿 柏原本陣跡

間宿柏原は西柏原新田にあり、ちょうど原宿と吉原宿の中間にあたる。
間の宿柏原の成立は江戸時代初期に遡るそうで、1690年(元禄3年)に出版された東海分間絵図に「かしわ原、茶屋かずかず、ここにうなぎあり」と書かれているそうだ。
柏原は冨士沼の鰻の蒲焼きが有名で、十返舎一九の東海道中膝栗毛の中にも名物のうなぎの蒲焼の話がでてくる。
JR東田子の浦駅近くの西柏原新田に「間宿 柏原本陣跡」と書かれた碑が建っていた。
碑の上に記載されている地図によると、街道筋の北側に6軒の商家(角屋、江戸屋、扇屋、柏屋、松屋、酒惣)が軒を連ね、南側に茶屋本陣を含む3軒(たばこ屋、本陣、田子屋)が並んでいたと記載されている。

間宿 柏原本陣跡の碑

立圓寺(りゅうえんじ)

立圓寺は日蓮宗の寺院。
東海道の原宿と吉原宿の中間にあり、富士山の眺望が楽しめる場所。
境内には、1979年10月19日の台風20号により柏原海岸に打ち上げられたゲラテック号の遭難者の慰霊碑と、尾張藩の典医・柴田景浩がこの地から望む富士山の美しさに感銘を受け建立した「望嶽碑」があった。
寺の前から眺めた富士山の眺めは、確かによかった。

立圓寺と富士山

昭和放水路

富士市東部は湛水被害が度々発生した地域だったことから、原村の増田平四郎(1807~1892)は浮島沼の大規模な干拓を計画し、強い潮風に苦労しながらも1869年(明治2年)に現在の昭和放水路と同じ場所に水干(すいほし)と呼ばれる放水路(全長505m、幅7m)を完成させたそうだ。
しかし、その年の高波によって水干は跡形もなく壊れてしまい、その後、再び直すことはできなかったそうだ。

昭和放水路は湛水被害の防除と優良農地造成を目的として、昭和18年(1943年)に県営沼川沿岸排水幹線改良事業により整備された放水路だそうだ。
延長は1,080mとのこと。

広沼橋の脇に、この放水路に関わりがある増田平四郎の像と記念碑、説明板が設置されていた。

昭和放水路
増田平四郎の像

沼田新田一里塚跡

広沼橋から西へ約70m程歩くと日本橋から数えて33番目の沼田新田一里塚の石碑が建っていた。
日本橋からの距離は、134kmあまり。
沼田新田一里塚も両側とも塚は残っていなかった。

沼田新田一里塚の碑


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