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【街と街道を歩く】東海道を歩く(原宿~吉原宿)その2

元吉原宿

東海道五十三次の14番目の宿場である吉原宿は、高潮被害により二度移転している。最初に宿場があった位置を「元吉原」と呼んでおり、富士市の今井から鈴川に掛けての範囲にあったそうだ。
天文年間(1532年~1554年)からあったそうで、1639年(寛永16年)の高潮により壊滅的な被害を受けたことから、内陸部の現在の富士市八代町付近の「中吉原」に所替したそうだ。
海岸に近い街道沿いの宿場は、確かに高潮の被害を受けやすかったのだろう。

元吉原宿跡の碑

妙法寺(富士毘沙門天)

妙法寺で開かれている「毘沙門天大祭だるま市」は、江戸時代に始まったとされる市だそうで群馬県の高崎だるま市などと並んで「日本三大だるま市」のひとつと言われているそうだ。
お祭りには全国からダルマ屋が店を出すそうで、ネットでだるま市の様子の写真を探してみたが、多くの人で賑わっている様子がうかがえた。
石段の先に鳥居が見えるが、妙法寺というお寺なのに鳥居があることに違和感が・・・。

妙法寺の石段

河合橋

JR吉原駅周辺で昼食の後、歩行を再開。
旧東海道の道が徐々に北に向かい始め、沼川に架かる河合橋に到着。
富士山が徐々に正面に見え始めた。

河合橋
沼川の流れ

中吉原宿と左富士神社

「中吉原宿」は、 左富士神社の南側(東ノ木戸)から荒田島、津田辺り(西ノ木戸)までで、約一㎞町並みが続いていたそうだ。
1639年(寛永16年)の高潮被害の後、「元吉原」から移転したそうだが、1680年(延宝8年)8月6日の高潮により再度壊滅的な被害を受けたことから、更に内陸部の現在の吉原本町(吉原商店街)に三度目の所替をしたそうだ。

左富士神社の創建は1796年(寛政8年)で、もともとの社名は「悪王子社」だったそうだ。現在の「左富士神社」と改めたのは1908年(明治41年〉だそうだ。
東海道を江戸から京都に向かうとき富士山は進行右側に見えるが、この地では街道を右方向に進む箇所が出てくるため富士山が左側に見えるので、「左富士」といわれている。

左富士神社

依田橋村一里塚

旧東海道の依田橋村一里塚は、日本橋から数えて34番目の一里塚だ。
日本橋から約139kmの距離にある。
依田橋村一里塚も両側とも塚は残ってなく、塚があった場所は民有地になっているため、左富士神社の境内に石碑を建立したと書かれていた。

依田橋村一里塚の石碑
依田橋村の一里塚の案内板

平家越え橋

「平家越」は、富士川の河沼から一斉に飛び立った水鳥の音を源氏軍の夜襲と勘違いした平氏軍が、逃げ帰った場所とされている。
この辺りにはかつて「平家越」という小字もあったそうだ。
富士川の本流が田子の浦港に流れ込んでいた時代のことで、今とはかなり違った景観だったのだろう。

平家越の案内板
平家越えの碑
平家越え橋からの川の眺め

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