マガジンのカバー画像

青史探究

56
街道と関連する都市にまつわるコラムを集めました。週二回の掲載を予定しています。
運営しているクリエイター

#旧東海道

#35 清見関と興津宿

清見潟 静岡市清水区の興津から袖師にかけては、穏やかな波が海岸線の岩礁を洗う清見潟と呼ばれる景勝地があった。 かなたに見える三保松原と日本平が織りなす景観は、『万葉集』以降多くの歌人に歌われ、愛された場所だ。 飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての貴族で歌人の田口益人(たぐちのますひと)は上野国への赴任の途中、浄見埼で、 「廬原(いほはら)の浄見の崎の三保の浦の寛(ゆた)けき見つつもの思ひもなし」 「昼見れど 飽かぬ田子の浦 おほきみの 命かしこみ 夜見つるかも」 という

#34 薩埵峠の眺めと由比宿

由比宿 日本橋から数えて16番目の宿場町である由比宿は、1601年(慶長6年)、東海道に宿駅伝馬制度が始められた際に伝馬宿として指定された宿場だが、鎌倉時代から湯居の名で知られた古い宿場だった町だ。 宿場は、蒲原宿からは1里(3.9km)、興津宿までは2里12町(9.2km)の距離にあり、日本橋からは38里21町45間(151.6km)の距離にあった。 1843年(天保14年)の「東海道宿村大概帳」では、宿場の総戸数は160軒、人口は713人(男366人、女429人)あ

#32 富士山南麓と吉原宿

富士山南麓の地形と河川 富士山の南に位置する旧東海道の蒲原宿から原宿に掛けての地域は、富士山から流れる河川で出来た沖積平野の地だった。原宿の北に位置する浮島沼は、「諸河川の堆積作用によって次第に泥炭化してゆくが、なおラグーンや沼沢地をとどめ」、「浮島ヶ原」と呼ばれる低湿地帯だ。 この辺りの地名も沼津、吉原=葦原、蒲原=蒲の原など、湿地帯を表す名称が続いている。 富士川の流れは太古は大きく東に蛇行して現在の田子の浦漁港付近は、往時、富士川の本流が流れ込む河口だったそうだが、