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青史探究

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街道と関連する都市にまつわるコラムを集めました。週二回の掲載を予定しています。
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#江戸幕府

【歴史小話】和菓子と6月16日

6月16日は和菓子の日だそうだ。 この和菓子の日は語呂合わせではなく、江戸時代の風習「嘉祥」もしくは「嘉定」から来ている。 「嘉祥」は、陰暦6月16日に疫病を防ぐために16個の餅や菓子を神前に供えてから食べた風習だそうだ。 陰暦だから、新暦でいうと今年は8月2日、夏真っ盛りの時期の行事だ。 江戸城の嘉祥(嘉定) 江戸幕府の嘉祥(嘉定)では、陰暦6月16日に大名・旗本が総登城して将軍から菓子を頂戴した。 杉の葉を敷いた片木盆1,612膳にのせられた総数20,324個の和菓子

【歴史小話】徳川秀忠は凡庸な二代目だったのか?

1.秀忠のイメージ(1)凡庸な二代目? 天下を統一して江戸幕府を開いた初代家康と江戸幕府の諸体制を整えた三代目家光との間に挟まれた第二代将軍徳川秀忠は、関ヶ原合戦の遅参などもあって凡庸な二代目というイメージが付きまとう将軍だ。 江戸時代中期に、湯浅常山(1708年ー1781年)が戦国武将の言行をまとめたとされる『常山紀談』では、徳川秀忠の人物評について以下の記載があるそうだ。 「台徳院殿(秀忠)は殊に礼儀正しくおはしまし、苟にも疾言おはしまさず。事なき時は泥塑人のごとく

#19 なぜ川崎宿が宿場になったのか?

宿場設置の経緯  2023年は川崎宿起立から400年にあたり、旧川崎宿の通りには、400年を祝う旗が設置されている。  東海道五十三次の2番目の宿場である川崎宿は、東海道の宿駅制開始から遅れること22年、1623年(元和9年)、武蔵国橘樹郡川崎領(現在の神奈川県川崎市川崎区)に設置された。  品川宿・神奈川宿間の伝馬継立は往復十里(約39km)と長く、両宿の伝馬百姓の負担が過重のため、両宿が幕府に請願して両宿の中間に位置する多摩川の右岸「川崎」に設置されたという。  つま

#18 なぜ街道沿いに刑場が置かれたのか?

見せしめの場  江戸時代、江戸周辺には南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(東京都品川区南大井)、北に奥州街道・日光街道沿いの小塚原刑場(東京都荒川区南千住2丁目)、西に甲州街道沿いの大和田刑場(八王子市大和田町大和田橋南詰付近)があり、三大刑場といわれた。  幕末には、中山道沿いに一時的に板橋刑場(北区滝野川のJR板橋駅北付近)が置かれ近藤勇などが処刑されたが、板橋刑場は新政府軍がたまたま処刑に使った場所で、正式な刑場ではなかったようだ。  江戸時代の刑場は、江戸に入る人たち、特