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青史探究

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街道と関連する都市にまつわるコラムを集めました。週二回の掲載を予定しています。
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#豊臣秀吉

#11 なぜ西の起点を高麗橋まで伸ばしたのか?(その3)

家康の伏見街づくり  1598年(慶長3年)8月18日に秀吉が伏見城で死去して以降、遺言により1599年(慶長4年)正月豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって家康が木幡山城に入り政務をとるようになるが、この時期、家康は情勢の変化に合わせ、伏見城と大坂城を巧みに利用した動きを取っている。  1599年(慶長4年)9月には家康も大阪城西の丸に入り、途中関ヶ原の戦いを挟み、1601年(慶長6年)3月まで大坂で政務を執って主導権の確保に努めている。  この時期伏見は、多くの大

#10 なぜ西の起点を高麗橋まで伸ばしたのか?(その2)

秀吉が整備した城下町  1583年(天正11年)から始まる秀吉の大阪の城下町作りは、上町台地上が中心となり、谷町筋以東の上町・玉造一帯と南の平野町一帯が中心であったと推測されている。城から南に通りが延び、奥行き20間、竪型の町割りが行われたみられている。  東横堀川を開削して惣構の城となるが、東横堀川の開削時期については、1585年(天正13年)説と1594年(文禄3年)説がある。  1598年(慶長3年)になると、秀吉は大坂城と城下町の改修に着手している。この時期、伏見に

#8 なぜ三条大橋が京の起点になったのか?(その3)

大仏橋から五条大橋へ  三条大橋は、室町時代に架橋されたというが、1589年(天正17年)に秀吉が増田長盛に命じて石柱の橋として修復・架橋している。この時の橋の規模は長さ126m、幅7.5mあったという。  一方、五条大橋は1590年(天正18年)に秀忠の方広寺大仏への参詣の便を図るために六条坊門小路を整備した際に架橋された橋である。架橋された頃は大仏橋と呼ばれていたようだ。五条橋と呼ばれるようになったのは、元和年間(1615年〜1624年)に新たに架橋されたタイミングだっ

#6 なぜ三条大橋が京の起点になったのか?(その1)

五条に通じる道  東海道の京の起点は三条大橋だが、なぜ三条大橋が選ばれたのだろうか?   中世までの街道の整備状況を考えると五条大橋を選ぶという選択肢もあったと思われるが、敢えて三条大橋を選択したのはなぜだろう?  東国から平安京に至る古くからの街道である渋谷街道(しぶたにかいどう)は、五条から大津へ抜ける最短の間道として、平安時代から中世に掛けて軍事的に重要だったという。  渋谷街道の起点付近の六波羅には、平安時代後期に伊勢平氏が邸宅を構えて拠点となり、伊勢平氏の繁栄