マガジンのカバー画像

青史探究

56
街道と関連する都市にまつわるコラムを集めました。週二回の掲載を予定しています。
運営しているクリエイター

#日本橋

#15 なぜ日本橋周辺に河岸が集まったのか

日本橋界隈と舟運  陸運と舟運の要衝である日本橋及び周辺の河岸は、物資が集まる物流の集積地であり、人の往来で賑わったという。  歌川広重の「江戸名所四十八景  日本橋魚市」などの浮世絵でも日本橋川沿いの魚河岸の賑わいと日本橋を渡る人の多さが描かれている。  日本橋から江戸橋にかけての北岸には魚河岸があり、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚の荷揚げが活発に行われた。  魚河岸の始まりは、1610年(慶長15年)頃、摂州西成郡佃村から移り住んだ森孫右衛門の次男九左衛門が、

#5 なぜ日本橋が起点になったのか?(その4)

なぜ一里塚を作ったのか?  一里塚の期限は古代中国にあるというが、日本では平安時代末期頃に奥州藤原氏が白河の関~陸奥湾までの間に里程標を立てたのが最初と言われている。戦国時代では、織田信長や豊臣秀吉が立てた塚があるという。  徳川幕府の一里塚の整備は、1604年(慶長9年)、家康が二代将軍秀忠に命じ、日本橋を起点として、東海・東山・北陸の3街道に1里(3,927km)ごとに5間(約9m)四方の塚を築かせ、塚の上には、榎や松、欅を植え、旅行者に便宜を与えたという。  榎、

#4 なぜ日本橋が起点になったのか?(その3)

いつ架橋されたのか?  日本橋の架橋時期については、実は公式な記録が残ってなく、はっきりとしたことは分かっていないが、日本橋が最初に架けられたのは1603年(慶長8年)だとする説が一般的だ。  翌年の1604年(慶長9年)、幕府が日本橋を起点にして各街道に一里塚を築かせたことに関して、三浦浄心が寛永年間(1624年~1644年)後期に執筆した「見聞集」で以下を記載している。 「当君の御時代に、一里塚をつくべきよし仰出されたり。されば日本橋は慶長八癸卯の年江戸町わりの時節、

#3 なぜ日本橋が起点になったのか?(その2)

最初の起点は元芝  東海道の起点といえば日本橋だが、日本橋が起点となったのは1604年(慶長9年)のこと。同年2月4日、徳川秀忠は家康の命を受け、東海道、東山道、北陸道に一里塚を整備させたという記事が「徳川実記」に記録されている。それ以前の東海道の起点は元芝だったという。金杉橋の南側の本芝一丁目(現在の芝四丁目)あたりと言われている。  なぜ、元芝が東海道の起点だったのだろうか?  「別本慶長江戸図」を使って推論してみた。  「別本慶長江戸図」は1602年(慶長9年)頃の

#2 なぜ日本橋が起点になったのか?(その1)

家康が入府した頃の江戸  銀座や日本橋を通る中央通りは、東京を代表する商業地を通る道路だ。港区新橋一丁目の新橋交差点を起点として、終点は台東区上野六丁目の上野駅交差点までの経路となっている。  江戸時代、この中央通りの日本橋から南は東海道、日本橋から北の須田町交差点の手前までは中山道だった。この区間は江戸時代も東海道と中山道という基幹道路だったわけで、特に日本橋周辺はメインの商業地だった。  しかし、最初から江戸のメインストリートだったかというと違ったようだ。  家康が入