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#6 Eternity.....

 2019年2月11日火曜日、野村克也さんの訃報を知る。日本球界のレジェンドが旅立った。小学生の頃、オールスターゲームで南海ホークスを知った。鮮やかなグリーンのキャップが鮮烈だった。中でも野村ってキャッチャーがすごい。顔が怖そう。東京にいてテレビ放送でも見たことない選手だ。しかしその後、野村監督、野村捕手が同一であることから、その凄さが理解できた。当時売られていた小さいが超分厚い選手名鑑で南海ホークスを調べて、背番号19は野村捕手の番号と脳裏に焼き付けたものだ。

  また、わたしが福岡ダイエーホークス監督付だった頃(1998年〜2004年)、管理部長であった桜井輝秀さんが、野村監督下でプレイしていたので、ショートで名手と言われていた桜井さんから当時のチームの状況を聞いたことがあった。

 ヘッドコーチにアメリカからブレイザー氏を起用して現在の野球の基礎となる傾向と対策を具体的にチーム戦略として導入していたこと。サインプレイ、大胆な守備のシフト、奇襲戦法等を用いて弱いチームが強いチームに勝つためには何をすべきか。当時の野球界においてはとても革命的なことだったと。そう桜井さんは話してくれたことを思い出した。ただユニホームを着て野球をやるのでなく、考えてプレイをする。そうでなければ一流の選手になれないことを監督であり、捕手である野村さんは証明したのである。

家が貧しかったから、ただただ母親を楽にさせたい、お金を稼ぎたい、そのためには自分は何をすべきか? 野球界で生き残るためにはどうすべきか? そういったストイックな背景があったことは後々の本人のインタビューをテレビで見ていて納得もした。

 その後、私がNIKE在職中、東北楽天イーグルスのアパレルをサポートする時にご本人とお会いすることになる。実は野村監督のアパレルは他の選手やスタッフと違う仕様にしていた。ジャージなどのパンツはウェスト、裾丈は監督の私物からサイズを確認して完全なカスタマイズに。また頭から被って着るスタイルのジャケットは全て完全前開きになるようにフルジップタイプにしたのである。腕を上げて脱ぎ着しなくても良い理由からだ。当時、イーグルスのチームは、試合の放送が無くても必ず野村監督は毎試合後囲み取材でウィットに富んだ会見をしていた。それが毎夜のスポーツニュースで放送されたからマーケティング的には最高の露出を確保できた。そして何より嬉しかったのは、野村監督に着心地を聞いたら、最初からジャストフィットだったということを認知していたのか笑顔で「いいですよ〜♫」と。そんな気遣いもしてくれた優しい印象があった。

 2012年から私はイーグルスのチーム統括本部長になった。野村さんは名誉監督として年間数回ホームゲームを視察しに仙台へ来られていた。ある日のナイトゲーム終了後に野村さんのお時間をいただき、国分町で球団幹部3名と会食をした。イーグルスが勝利したゲームだったからか終始笑顔であった。試合の内容よりも、「S(ある選手のこと)は学校の成績がオール5なんか取っているから野球が上手くならないんだよ、勉強の出来が良すぎるやつにいい選手はいないんだよ(笑)」と何度もその選手のことを気にされているのか話題にしていた。また私がホークスで王さんの監督付マネージャーを7年やっていたことを知ると「星野はええな〜」とか「王は人格者だろ?」とか笑いを交えて野村さん特有の〝ぼやき‘’を連発していた。手厳しい話は一切なく、楽しい時間を過ごすことができた。

 私もそれから人間野村克也さんに興味を持ち、テレビで野村さんが出演していると時間の許す限り見ていた。野球の話のみならず哲学的な考え方、人間観察力を。また共演者にあわせて解説する姿勢、言葉の使い方は非常に学ぶ点が多かったからだ。

 捕手としてはたくさんの投手を育て、監督としては強いチームを作った野村克也さん。何のために生まれて生きているのか? ということをよく話されていたが 野村さんはたくさんの人たちに野球の素晴らしさを伝えてくれたと思う。人は考えて行動すること、失敗を恐れず行動することが成長につながること等々。たくさんの教えを後世へ 〝言葉=ぼやき“ で示してくれたのだ。

 本当にありがとうございました。そしてお疲れ様でした。天国から我々が不甲斐ない時は、存分にぼやいて下さい。
合掌。



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