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【きいてみる稽古】 乗り物としての語尾

きいてみる稽古のふりかえり。

声のコンステレーション

「仕事と、家族と、趣味と・・・」のように、目の前に言葉を並べるように語られる時、聞き手がそれらを繰り返しながらついていくことは、声でコンステレーションをしていることと同じだという。つまり、一つ一つの事柄が語り手にとってどのくらいの距離感にあり、どんな存在なのかを、声(音)で表しているのだという。

稽古が終わった後で、該当箇所のやりとりをひとりで聞き直してみた。しかしわたしの耳には、それぞれの言葉ごとの声(音)の違いが明確には聞き分けられなかった。え、これでわかるの?と思った。何度か聞き直してみると、だんだんとそこに差異があることに気づく。特に「○○と、△△と、□□と・・・」と語っている時の「と」の声の感じが、言葉ごとに違っていた。違いに気づくと、だんだんとその違いが明瞭になってきて、次第に明らかに違うように聞こえてくる。

いやしかし、こんな微細な音の違いを聞き取っていたのか、由梨さんは。

乗り物(文体)としての語尾

稽古をやり始めた頃は、相手の言葉を繰り返すという型稽古は方便としてやっているのかなと思っていた。実際の対話ではそんな変な応答はしないんだけど、型としてやってみることで学ぶことがあるからやるのかなと。でも、どうもそうでもなさそうだ。応答するときに相手の言葉を変えないことは、わたしが思っていた以上に大事なことのようだ。

そういえば、内田先生は文体をヴィークル(乗り物)に例えていたな。文章を書く上で大事なのは文体だと。その文体が乗り物となり、書き手を先へ先へと運んでいくのだと。由梨さんは、相手の言った言葉の細部(語尾)を変えないことをとても大切にする。それってもしかして、語尾は文体で、それこそが語り手を語り手自身の世界へと運んでいく乗り物なのかな。

即興的な型稽古

相手の言葉をそっくりそのまま繰り返す時、それはオウム返しのように、こっちに投げられたボールを、そのまま相手に投げ返すことではないという。そうじゃなくて、相手が発した同じセリフを、聞き手が自分の口で言ってみることで、聞き手自身の中にその言葉の実感を入れようとしているのだという。

わたしは実はそれがあんまりできない。「どの言葉が大事だろうか?」とか、「この人は何を言いたいのだろうか?」と頭で考えていたり、「ちゃんと聞き取れるかな?」といった不安があると、肝心なところでパッと反応できないのだろうな。

「きいてみる稽古」も即興の世界だな。考えないで直感的に動くこと。迷わず反応すること。めげずに何度もやってみようと思う。


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