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たかこ先生のレッスン徒然日記vol.24

またまた前の投稿から随分時間が経ってしまいました。
『たかこ先生のレッスン徒然日記vol.24』

小学4年生の冬に関西から関東に引っ越してきて、言葉の壁を痛烈に感じながらの生活になった たかこ先生。
活発な割に内省的な性格もあり、その性格が助長され周りの眼を気にする傾向が強くなった気がします。

新しいピアノの先生は今の芸大を卒業されてて(芸大ではなかった頃にご卒業された)、これまでの先生の中で最も年配の女性の指導者でした。人生の舵取りをしていただいた恩師となります。大きな出会いでした。

先生のお宅は鎌倉でした。
バスを2本乗り継いで通いました。
総武隧道というバス停が乗り換え地点だったのですが、当時本当にお店も民家も何もなく、夜は立って待ってるのが怖いところでしたが、数ヶ月が過ぎると一人で通っていました。道も大変混みあうところで行き帰り予定どおりになったことはなく、通うのも大変でしたが、そのことについてはなんとも感じませんでした。

笑顔が素敵な先生でしたが、ちょっと辛口傾向。褒めてはくださいますが、NOもかなりハッキリ仰る先生でした。どんどん新しい曲に取り組ませると同時に、復習も山のようにやるレッスンで、復習メインの練習をしていた私は幸いにも先生との相性は良かったように思います。それから長きに渡り(先生がお亡くなりになるまで)とても可愛がっていただきました。
コンクールを勧めて下さったのも先生が初めてでした。

現在日本には大小200あまりのコンクールがあると言われていますが、当時はコンクール数もなく、誰でも挑戦して良いものではなかったように思います。自分から受けたいと言っても先生がYESと言わなければ受けられない、そんな時代でした。

予選はモーツァルトのソナタK.V.311第1楽章でした。
コンクールってみんな同じ曲弾くんだ。。
こんな認識でステージにあがり、調子よく弾いてたのに最後のページでこけてしまい、あれあれと尻切れトンボで終わるという。。(笑)

予選通る、通らない
それがどういうことなのか考えもせず受けたコンクールでした。
あまりにも自覚がありませんでした。
それでも合格者の中に自分の番号がないのを確認すると、ツーと涙が流れたのを今でもよく覚えてます。
悔しいとかではなく、「落ちる」ことは思う以上に衝撃的な経験でした。

その後すぐのレッスン、なにを練習していけば良いか分からず、ひとまず前にやっていた復習と、やるように勧められていた曲とをもっていきました。
先生はコンクールのことは何も仰らずにいつものようにレッスンして下さいました。
後から母にはいろいろ言ってたと聞きましたが、私にはなにも仰らなかった。
この経験はその後、落ちても落ちても「また来年コンクール頑張ろう」という気持ちに繋がったような気がします。
厳しい先生でしたが、結果に対し責めることは一度もなさらない先生でした。

落ちても落ちても、、、
と書きましたが、はい。。
たかこ先生、そこから20才になるまでコンクール運に恵まれたことはありませんでした。
一度もです。

落ちる落ちないで20才までに使った運は
桐朋女子高等学校音楽科に入学できたこと、
くらい。
あ、あとは留年することなく桐朋学園大学に入学できたこと!くらいですね(笑)

世の中にはコンクール以外でも
勉強できること
経験できること
沢山あります。
コンクール運には全く見離された子供時代でしたが、沢山の素晴らしい経験を積むことができました。

どんな経験だったのか
これからゆっくりお話できたらと思います。
お読み下さってありがとうございます。
マイペースで書いていきたいと思います😊


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