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大陸合理論の継承者、パスカル(1623〜1662)

このパスカルを、デカルトに続く大陸合理論者に位置づけることは、多くの人が抵抗を感じるかもしれない。しかし、正統カトリック信仰に対する異議申し立てを行った人物としてなら、十分「近代的思考」の系列に並べることができるだろうし、また、この点に関してなら、あのカルヴァンの系列に組み入れることもできるだろう。しかし、それ以上にパスカルは彼の遺作「パンセ」で語られた言葉によって、世界的に有名になる。言うまでもなく、次の文言である。「人間はひとくきの葦にすぎない。自然の中で最も弱いものである。だが、それは考える葦である」。この文言はあまりにも有名で、仏和辞典ではそのまま原文で紹介されているほどである。

さて、この文言によって世界的に有名になったパスカルではあるが、彼の生涯を見ると、この文言だけでは語り尽くせない彼の人生が見えてくる。

1623年、彼はクレルモン地区徴税官の長男として生まれる。彼には3歳年上の姉ジルベルトと、2歳年下妹ジャクリーヌがいた。彼は早熟の天才と言っていい。彼は若くして父の仕事を軽減するため計算機まで開発し、特許までとっている。彼の科学への関心は「真空論」(1651)から、水圧機の原理になる「パスカルの原理」にまで及ぶ。しかし、このような自然科学の研究に彼の心は浮かなかったという。この頃、フランスでは強大化するルイ14世の「王権」に対して、高等法院貴族や封建貴族が結託した、いわゆる「フロンドの乱」が起き、パスカルはこの乱をパリで見聞きしている。しかし、まもなく「フロンドの乱」は鎮圧されて王権はますます強化される。

この王権の強大化は、フランスのキリスト教会全体にも大きな影響を及ぼすことになる。その結果、時の宰相マゼランは、自分の招集した司教会議において、神学者ヤンセンの主著「アウグスティヌス」の中の諸命題を異端と宣言させることになる。フランス政治家であり、マゼランが本来自分の権限ではないはずのフランスの司教たちを招集するというのは、ローマ教皇側からすれば、とんでもない越権行為であるはずであった。しかし、強力な近代的集権国家の確立を目指すフランスにとって、そんなことは当たり前のことであった。

このような事態が起こる2年ほど前、つまりまだあの「フロンドの乱」が鎮圧されていない1652年、彼の妹ジャクリーヌがパリの「ポール・ロワイヤル」の修道院に入ることになる。これを機会に兄のパスカルもまたこのポール・ロワイヤルと深い関わりを持つことになる。その上、彼、パスカルもまた1655年以降、このポールロワイヤルに滞在するなり、住み着くことになる。その上で新しい「神学問題」に挑むことになる。次回、「ポール・ロワイヤル」とは何だったのか、語っていく。

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