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カトリックの一派「ポール・ロワイヤル」とは

「ポール・ロワイヤル」とは、英語で言えばロイヤルポートである。つまり国立の王立の港、安息所という意味であり、フランス史では、パリの南西に設立された女子修道院(やがてパリ市内に移る)のことである。また、周辺に形成された男性の隠者集団をも含めて「ポール・ロワイヤル」と呼ばれることもある。

もちろん「修道院」と言うからには、設立の主体はフランス・カトリックである。ところが、この修道院に主導した学者たちは、ヤンセン(フランス式発音ではジャンセン)の神学を取り入れることになる。ヤンセンは司教までつとめていながら、あの古代末期の神学者、アウグスティヌスの復興を測ったのである。

周知の通り、アウグスティヌスの教説「二重予定説」である。つまり、神はあらかじめ「救いに予定されているもの」と「救いに予定されていないもの」との二通りに選別して、この世に送り込まれたとする説である。

かつて、1世紀ほど前のあのカルヴァンもまた、この「二重予定説」を支持し、神によって選ばれた者の側に属することを確信するためには、神の「召命(Calling)」=「自分に課せられた職業(Calling)」に応ずることであるとし、当時の正統信仰であるカトリックから離れ、プロテスタントたることを主張したものであった。

「二重予定説」を支持し、神の召命をひたすら待つ


ところが、それから、一世紀後のこの「ポール・ロワイヤル」の指導者たちは、同じアウグスティヌスの「二重予定説」を受け取っても、カトリックから離れようとしなかったのである。理由は、神の召命に応じることではなく、(このためには神の呼びかけの声を聞いたと幻想が必要であった)、神の召命に応ずる以前に「神によって選ばれる側の人間」であるべく、身を厳格に保持し、神の「召命」を待つべきだと言うのである。このような思想と態度なら、カトリックとしても異存は無い。したがって、カトリック側も、この「ポール・ロワイヤル」をカトリック側の一派として認めたのである。

ところが、このポール・ロワイヤルの態度は、当時のカトリック諸派は、必ずしも友好関係に立っていたわけではない。特に、イエズス会に対してはそうであったという。

イエズス会と言えば、あのフランシスコ・ザビエル以下の多くの宣教師を戦国時代の日本に派遣して、多くの日本人信者を獲得したことでも有名な修道院である。このイエズス会は伝道ばかりでなく、貿易の先導役も果たしていた。このような東洋伝道、貿易貿易でも一定の成功におごってか、西欧各国では、各王室とも結び、大層、羽振りの良い態度であったという。当の「ポール・ロワイヤル」派は、同じカトリック内でも、このようないささか傲慢なイエズス会とは不仲な関係であったそうである。「ポール・ロワイヤル」は厳粛な態度で、ただひたすらに神の選びを待ち望んだとのこと。しかし、このようなひたすら神の選びを待ち望む態度は、教皇側からも煙たがられ、ましてや国王側からは不審がられ、両方から禁圧の圧力をかけられることになる。

問題はこのような頑なな「ポール・ロワイヤル」側にもあった。アウグスティヌスの導きに従って、ただ、ひたすら神の導きを期待するといっても、いつまで待っても神の導きが得られないとした場合はどうするのか。

さて、そうなった場合の彼らの態度については、正式の歴史には記載がない。風俗史が断片的伝えるだけである。そうなった場合、一般的には「馬鹿馬鹿しくてそんなありもしない神の救いなど、生涯かけて待っていられるものか」となるのが普通だろう。高名な神学者ならいざ知らず、一般の人間なら「ポール・ロワイヤル」の教えに従ってきて、何の効果も期待できないとすると、この教えに従ってきたのはばかばかしいとなるはずである。とすると、彼らは修道院の十字架を取り出してきて、それを逆さまににて「黒ミサ」と称して馬鹿騒ぎをしたしたとも伝えられている。このような馬鹿騒ぎはなんと、18世紀中期まで続き、ついにはフランス革命における「十字架」そのものの火処分事態にまで発展することになる。

しかし、やがてそんな事態にまで至るとは知るよしもないパスカルは、「ポール・ロワイヤル」にこもりながら、カトリック内の峻厳派としての生涯を貫いたのであった。ちなみに死後に遺稿集として発表されることになるあの「パンセ」(1670年)を一読してご覧になればよろしかろう。そこにはいかに多く、アウグスティヌスからの引用が多いかに、改めて気づかされるはずである。

なお「ポール・ロワイヤル」の立場を主張したあのアルノーを弁護し、改めてアウグスティヌスの立場を高く掲げたパスカルの書「プロヴァンシアル」は1656年の書である。

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