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【2】わたしはなぜ、天然繊維を追求するのか /幼少期の体験、稲葉賀恵先生との出会い

ファッションデザイナーの野口貴子です。
前回は私の専門分野について簡単なご紹介をしました。今回はなぜ私が天然繊維に目覚めたのか、その原体験について少しお話します。

私は三重県生まれですが、幼少期はずっと、東京の杉並区、荻窪で育ちました。
私が、天然素材の心地よさを初体験したのは、小学校の2年生ぐらいの頃でしょうか。習い事として通っていたバイオリンの帰りに、新宿伊勢丹で毛皮のコーナーに立ち寄ったときでした。
そこに置かれた毛皮のコート(おそらくミンク)にふれた瞬間、この世のものでは無いような心地よさを感じたのです。
まるで夢の世界。「ものすごく気持ちいい!」これは何だろう?? うっとりしながらも不思議でした。でも、当時はまだ小学校低学年の少女。目の前に
あるそれが何かしらの動物の毛皮であることぐらいしかわかっていませんでした。

さて、この体験の後、20代前半までの十数年間、私は他の同世代の女の子と同じように、流行を追い求めるようになります。トレンドに敏感な、活発な女の子でした。
当時はまだまだDCブランドの勢いがある時代で、私はバイト代を貯めてコム・デ・ギャルソンを買ったり、アメリカのミュージシャン、プリンスに憧れ、ディスコに通ったりしていました。かなりヤンチャもしました。

高校を卒業するころファッションデザイナーになろうと決意し、新宿の「文化服装学院」に通うことになりました。
文化服装学院は課題の多いことで有名な厳しい学校で、連日徹夜で課題をこなし、無事に卒業し、日本橋にあるアパレル会社に採用され、ファッションデザイナーとしてのキャリアが始まりました。

その後20代を通して、私は誰もが知っている大手のアパレル数社に在籍し、ニットデザイナーとして経験を積みました。
連日、深夜にタクシーで帰宅し、2、3時間だけ仮眠してまた出社、という日々。当時は日本社会全体がそういった慌ただしい雰囲気でした。私自身、その頃は「天然繊維」のことなど全く頭になかったですし、そもそも時代がまだ天然でナチュラルな価値観を求めていなかったように思います。

転職する毎に、Burberry、L'EQUIPE YOSHIE INABAなど、トレンドよりも素材の品質にこだわるブランドに関わっていくようになりました。

30代に突入した頃、私にとって天然繊維を意識する2度目の大きな出来事が起こります。ファッション界の大御所、稲葉賀恵先生との出会いでした。
BIGIという会社に在籍していた頃の私はパターン(型紙)を起こしたり、素材を選定する現場のいちデザイナーでしたので、ブランド名に冠された賀恵先生ご自身と直接ミーティングする機会はそう多くはありませんでした。
ある日、アトリエにふらりと立ち寄った賀恵先生が、「ウールの試編みパターンを野口に見せてあげて」とブランドチーフに指示を出してくださいました。
その時先生はこのように具体的にアドバイスしてくださいました。

「ウール100パーセントの素材で、ジャケットでもスカートでも、何だって作れるのよ。編み方もいろいろあるの。ウールは素晴らしい素材だから、ウールの可能性を勉強しなさい」と。

その言葉はデザイナー歴8年ほどの私にとってとても新鮮で、「こう語っている先生も、言われているウール素材も超カッコいい!」と何だか興奮してしまいました。
いま思えばその瞬間が、私が天然素材を意識し、愛情を感じ、探求するきっかけになったように思います。

それまでも、セーターやカーディガン、ニットのインナーなど、ウール素材を用いてさまざまな商品を作っていましたが、
ウール素材の本当のすばらしさと可能性に気づいたのは、このとき先生にウールの試編みパターンを見せていただき、アドバイスをいただいてからです。

そしてあることに気がついたのです。
私が尊敬する素晴らしいデザイナーのほとんどが、天然繊維が大好きで、その活用法を探究し続けていることを。
天然繊維には、何かあるに違いないと確信しました。
幼少期にふれたミンクのコートの心地よさ、その圧倒的な魅力。20代後半になってその意味を理解しはじめ、意識していくことになった私。
ところが、その後私は先の見えない暗闇の底で苦悩することになるのです・・人生は順風満帆にはいかないものです。

※第2回目の今回は、私の人生前半のエピソードでした。次回は、苦悩の日々、ある「健康法」との運命的な出会いによる「ドン底」からの脱却、についてお話しします。

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