「やつ」という言葉の汎用性ゴイスーじゃね?という考察
言葉と文化は繋がっています。文化は言葉なくして成立しません。だから、自国以外の文化を学ぶ時、また、自国の文化を学ぶ時、その国の言葉について知ることなしに、文化を知り得ることは不可能です。
大人気のPodcastコテンラジオの中でこんな話がありました。「日本語には主語がない」ということを言語学者の先生が仰ったという話です。
Aさん「お腹へった」
この言葉をAさんが発した時に想定されるその場の会話は、
Bさん「そうだね、どっか食べに行こうか?」
Cさん「マックは?」
Aさん、Bさん「いいね、行こうよ」
みたいな流れです。この会話に主語を付け加えると、
Aさん「私はお腹が減っています」
Bさん「私はその意見に同意です。私達でどこかに食べに行きませんか?」
Cさん「私はマックに行って食べることを提案します」
Aさん、Bさん「私はそれに同意します。私達はマックに行ってごはんをたべましょう。」
と、まるで英語の文章を和訳したような会話になってしまいます。つまり、何が言いたいのかというと、日本語では、主体的な意見を主張せず、その場の空気や流れの中で、何かを提案するような言葉を発することでコミュニケーションを行っているということです。
良い言い方をすると、空気を読む。悪い言い方をすると、自分の主張に対しての責任を負いたくない。そんな感じかなと思います。これって、日本の文化に密接に関わっていると僕は感じます。
話は少し変わって、先日、子どもを連れて大きな公園に遊びに行った時、女子中学生らしき集団が大きな岩のところで遊んでいました。すると、一人に女子が「これ(この岩)、登っていいやつ?」とみんなに言いました。
「いいやつじゃない?」と誰かが答えて、その女子中学生の集団は、みんなでその岩に登って、その上で写真を撮っていました。おそらく誰かのインスタのストーリーズにアップされたことでしょう。
ここで言うところの「やつ」は「岩」と捉えることもできるでしょう。しかし、「岩」という意味合い以上のものがあるように僕は感じました。それを無理やり言語化するならば、
他の誰しもが遊んでいい遊具
という意味合いです。それに気づき「やつ」という言葉の汎用性について考え、このような文章にしています。例えば、すごいダサい服を着てパーティーに来た人が居たとします。そこで誰かが言います。
「その格好、イジっていいやつなの?」
この場合、本人は、そのダサい格好をダサいとイジられてネタにされることを前提にしてそのダサい格好をしているのだろうか、という意味合いです。そして、ここでの「やつ」は、
イジってもいいという前提条件に当てはまるパターン
という意味合いです。この「やつ」という言葉には、日本の色んな文化が内包しているなー、と感じます。日本語って、本当におもしろいですよね。今回の話はそういうやつでした。いつも読んで頂いてありがとうございます。
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