震災について思うこと

こんにちは.今回は震災後12年を節目に東日本大震災のことを書きたいと思います.備忘録というか,あんまり人に話したことがない内容なので,少し気恥ずかしいですが,よければ最後までお読みください.

当時の様子

当時中学3年生で,卒業式を翌日に控えていた.多少なりとも浮かれ気分であったことは間違いない.地震そのものはあまり覚えてなくて,ただ何もないことを祈るだけだった.結論から言うと,家族や親戚に怪我や被害はなく,自宅の唯一の損害は何十年物のお盆が割れるという家の中のはちゃめちゃ具合からは拍子抜けするほど軽微な損害しかなかった.幸いにもライフラインは水道とガスが生きていて,電気だけが一週間とまった.電気が戻っても,すぐに日常に戻ることはなく,いつも通りの学校が始まったのは1ヶ月半以上たった4月下旬だった.

当時感じたこと・考えたこと

そんな状況だったから,どんなに暗い心情だったかというと,実はそうでもない.意外と冷静にあって,むしろ日常の小さな喜びに敏感になっていたようにも思う.例えばご飯.書いたように電気がなかったため毎食祖母がガス火でご飯を炊いてくれた.今思い返してもあの時のご飯は人生トップクラスの白米だったと思う.同時に,水道とガスが生きていることにどれだけ感謝したかわからない.日常で電気を使う場面は多いけれども,ああいった極限の状況では電気は意外と無力で,電気なんかなくとも生きていけると本気で思っていた.今となってはやっぱり必要だけど.
それと,震災から二日たった夜の星空はすごく綺麗だった.電気が一帯で停まっていたので,人生初の天の川もその時みた.電気は順次復旧していったので,あの綺麗な星空はそれ以降見れなかったが,地震後塞ぎ込んでいた気持ちの最初の希望だった.
数日経つと被災生活にも慣れ,暇を持て余すようになった.何かできないかな,とぼんやり考えようにも,原発事故の噂も広まって外出自体がリスキーな雰囲気もあった.趣味のギターも家族に自粛を強いられた.唯一の情報源であるラジオや新聞はどれも断片的な情報しかないけど,どうも相当な津波の被害と犠牲者になりそうだという情報はなんとなくわかった.
そうした状況下で,中学生そこらの自分にできることは何かと考えた時に,勉強をすることしか思いつかなかった.
何かを手伝うにも,自分の家の周りはもう整理がついてきているし,津波の被災現場に行く手段がないし,いったところで何ができるかもわからない.自分が今,被災地のためにできることは思いつかなかった.だから,せめて犠牲になった人の分まで少しでも勉強して,こういった時に人の役に立ちたい,世の中の役に立ちたいと思った.今思うと烏滸がましいけど,その衝動に突き動かされて学校が始まるまでの1ヶ月ちょっとはかなり勉強(主に数学)したので多めにみてほしい.

その後の数年間

震災から一年ほどたったのち,被災地の高校生への支援としてイギリスへの短期プログラムに母校が招待され,そのメンバーとして参加しケンブリッジ大学を訪問した.知る人ぞ知る2012 UK Science Workshopである.今思うとそこでの経験が大学というものの原体験だった気もする.ケンブリッジ大学が醸し出す雰囲気に圧倒され,毎日刺激的だった.他にも震災とは無関係なのも含め,高校時代に計3ヶ国(オーストラリア,イギリス,アメリカと全て英語圏!)に観光ではなく研修で行けたのは,今思うと相当に恵まれていた環境だったし,今の海外への心理的ハードルの低さに明らかにつながっていると思う.

今改めて感じること

なぜ12年というタイミングでこうしたことを書きたいと思ったかと言えば,多分いろいろな要因があるように思う.12という数字になんとなく一つの区切りを感じていることもあるだろうし,日本から離れて逆に思いが強くなったこともあると思う.ただ当時を振り返るとやっぱり見えてくることもある.
まず,当時真っ先に勉強をしようと決断したことは,今振り返ると自分の本質的な性質を表しているのかな,と思う.衣食住が揃うも,それ以外がない時に何を望むかというある意味究極な状況で割とすんなり見つけた答えが勉強だった.そこで結構がむしゃらに勉強したからこそ今の自分があるし,その時の自分を思い出すと多少なりとも今の自信になる.
あとは,犠牲になった人たち(特に同年代やそれ以下の子供)のことは頻繁に頭をよぎる.宮城の死者・行方不明者は1万人を超えているが,このほとんどは12年間で徐々に亡くなったわけではなく,地震後数時間のわずかな時間で亡くなったわけだし,宮城に住んでいたからこそ,そう広くない範囲での被害であることも身をもって感じている.被災当時田舎の中学生だった自分,もっというと小学生の時はさらに田舎に住んでいたガキが,今アメリカに留学していると考えると,人生何があるかわからないと本気で思う.無限の可能性のある人の未来が,あの1日で大量に失われたと思うと,当時のように心がいたむ.だからこそ,今を生きる自分は頑張らなくては,とも思う.
改めて,3.11は特別だと思う.宮城に住んでいると,頻繁に大きな地震に遭遇し,そのだいたいにおいて,いつ,どこで,誰と,どんな揺れだったかを覚えているが,3.11は地震自体の記憶は曖昧な一方で,その後の日々がものすごく頭にこびりついている.震災後1ヶ月の日々は多分一生忘れることはないし,自分の軸になっていくのだろう,と12年経って改めて思う.

最後に心に刻んでいること

最後に,震災後心に刻んでいることを二つ記したい.
一つは,感謝はその時に伝えること.いつ伝えられなくなるかわからないと本気で思った.それは,自分の人生が終わる可能性もあるし,相手の人生だってそう(実はこれのおかげで同級生の母親から知らないところで気に入られたこともあった).
もう一つは,勉強できることに感謝し,楽しむこと.プリンストンにきて改めて思う.プリンストンはいいところではあるけど,インドアな自分にとってはあんまり娯楽がない.ニューヨークも近いけど,何するにもお金がかかって頻繁には行けない.そんな中で,自分のしたい勉強ができることに久しぶりにワクワクしている.研究とは直接関係ないこともやっているけれど,もう少し自分の好奇心に忠実にいたいと思うし,そうできる環境に感謝したい.


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