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「小倉南FC」という小さいけど偉大な街クラブに入ったことが今の自分を創った


断言できる。今の自分があるのは、「小倉南FC(通称:ミナミ)」で積んだ経験があるからだと。


俺はこの中学校の3年間で、何百回と悔しい思いをし、何百回と挫折をし、何百回と成功体験を積んだ。その結果、凄まじく強くなり、成長した。

サッカーにおいても勉強においても、胸を張って自分のことを語れる3年間だ。


しかしこれは間違いなく、「ミナミ」に所属し、そこに競争し合える仲間がいたからである。
この環境に飛び込んでいなければ、今の自分はないと断言できる。


今回はこのミナミに所属した3年間で、どのように今の自分を創っていったのかを紹介させてもらいたい。


小倉南FC(ミナミ)とは

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小倉南FC。
その名の通り、福岡県北九州市小倉南区に居を構える所謂 "街クラブ" である。


練習は志井公園という照明もない土のグラウンドか、志井幼稚園の激狭なグラウンドで行う。
しかも、雨でも雪でも基本練習は行われ、余程のことがない限り中止にはならない。

志井公園で練習した日には、頻繁にマイボール⚽️がなくなる。(中学の間に何個ボールを買い換えたことか。。)

正直、環境は悪い。

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でも何故か、毎年各ジュニア(小学生チーム)のエース級が集まり、全国大会や九州大会へ出場する。

Jリーグの下部組織ではないが、福岡県や九州地域でサッカーをしていた人であれば、大体知っているだろう。

因みに、出身選手の中では現在、以下の選手達がJリーガーとして活躍している。

◆中山開帆(水戸ホーリーホック)
◆福田湧矢(ガンバ大阪)
◆福田翔生(FC今治/湧矢の弟)
◆下坂晃城(町田ゼルビア)
◆吉田晃(名古屋グランパス)
◆植中朝日(V・ファーレン長崎)
◆大畑歩夢(サガン鳥栖)

色々と綴りたいことがあるので、小さな街クラブの紹介はこの辺までにしておきたい。



全ては"ミナミ"を選んだところから始まった


数チームの練習に参加をさせてもらい、悩んだ末に自分で選んだ進路。
各チームからエース級が来ることは何となく噂で聞いていたし、競争が激しいのは覚悟の上だった。

しかもミナミのグラウンドまでは家から電車で1時間以上かかる。自分なりには、覚悟が出来ているつもりだった。


初回の練習に集まった同期は約40人。街クラブの規模にしてはかなり多い方である。


「こいつらと一緒にサッカーが出来るのか」という楽しみと共に、「本当に試合に出れるのかな?」という不安が入り混じっていた。


しかし、あの時心の中では思っていた。
「何だかんだ出れるだろう」と。

入団当初は、全国優勝するグラウンドに自分が立っている絵を想像していたが、これは直ぐに打ち砕かれることになる。



自分の覚悟があまりにも足りなかった


1年生の夏にいきなり来る「1年生大会」(一応公式戦だったはず)。

メンバー発表がされる時点では既に、自分の立ち位置はある程度分かっていた。
「出れない。正直、メンバー入りすら危ないかも」


結果、何とかエントリーメンバーの25名には入れたが、大会を通して僅か30分(ある試合の前半だけ)しか出場することができなかった。



「そんなに技術で差があるわけではないのにな〜」

この時点ではまだ、自分の何が甘いのか、理解できていなかった。



そして、ある時、自分の根底の考え方をひっくり返す大きな出来事が起こる。



1年生の夏から秋頃のある日、学校が終わった時間帯で大雨が降っていた。マンホールから水が溢れ出るくらいの大雨だ。

この時自分は思った。「今日の練習は流石に中止だろ。」
小学校の時であれば即中止。家で大好きなウイイレの時間だ。

しかし、待てど待てど中止の連絡が来ない。
「行かないといけないのかな?」
「いや、でもこの雨だと車の移動すら危ないからなー」
「流石にサッカー出来ないだろ今日は」


色々な考えを巡らせながら、コーチに電話をした。
「今日練習ありますか??凄い大雨ですけど?」

こう返事が返ってきた。
「あるよ!でもスガ(当時の呼び名)は家が遠いから無理しなくていいよ!」と。

そして「わかりました。お気遣い有難うございます。それでは今日はお休みをさせて頂きます。」と返事をして電話を切った。

コーチは優しいなーと思いながら、試合に出ていない自分が練習に行かないことに対して、多少モヤモヤした気持ちもあった。


そして同時に、自分の休みを正当化すべく、ある同期にメールしてみた。📩
この同期は片道なんと2時間近くも掛けて通っていた。

俺「今日練習どうする?」

彼はこう返した。

「行くよ!」


ん??まじか。。と思った。
しかも雨のことは何も言ってこない。

俺「雨やばいから、今日行かなくていいってコーチに言われたんよね。」
彼「あ、そうなんや!でももう俺(博多から小倉までの)新幹線乗ったし、とりあえず行ってくるわ!」


この瞬間、血の気が引いた。
「何やってんだ俺は。。」

試合に出てる奴が2時間かけて来てるのに、出てない俺は雨を言い訳にして家にいる。。
彼とは明らかに"サッカーにかける覚悟" に差があった。


自分が情けなさ過ぎた。そして、めっちゃ泣いた。
後悔しかなかったし、甘ったれている自分自身のメンタルの弱さが悔し過ぎた。


でも、この経験が自分を変えた。
やっと気がついたのだ。
"俺には技術が足りないんじゃない。覚悟が足りないんだ"と。


その日以降、マインドが変わった。

練習は何があろうと行く。
人が2時間練習しているのであれば、自分は4時間練習する。
サッカーを言い訳にして勉強をサボらない。
そして、何が何でも試合に出る。


この経験から、「先ずは何でもやってみる」という自分の根っこが出来上がった。


マインドが変われば行動が変わる。
行動が変われば習慣が変わる。
習慣が変われば人生が変わる。

よく耳にする名言だが、今思うと、まさにこれだった。


マインドが変わった1年生の冬頃からは、徐々に試合に絡めるようになっていった。



幾度となく訪れる挫折の機会



とは言え、そこから全てが順調にいったわけではない。


(公式戦ではない)大会に出場する際には、13〜15名程度を選抜して出場する時があった。
ギリギリの争いをしていた自分は、そのメンバーから何度か漏れた。

メンバー自体から外されるほど悔しいことはないし、何度も「何であいつなんだよ」と他責にしようとした時もあった。


またある大会では、13〜15名程度に選ばれたものの、5分しか出場できずに終わるようなこともあった。
しかもそういった大会には限って、両親が応援にきていた。。。家に帰るまでに、何て言い訳しようかと考えたこともあった。

不甲斐ない息子の姿を見せるのは悔しかったし、その度に泣いては、母親からは「辛かったら辞めてもいいんだよ?」と言われたこともあった。



辞めた方がラクなんだろうな〜
試合に出れるしな〜 


正直こんな考えが頭を巡ったこともあった。

イライラして学校で喧嘩の騒ぎを起こすこともあった(母親が学校に呼び出され、生徒指導の先生からお叱りを受けたこともあった)。


でも、踏ん張った。
どうしても試合に出たかったし、ここで終わるわけにはいかなかった。

技術や体力のポテンシャルで劣るのであれば、「量で勝つしかない」
とにかくガムシャラに量をこなした。やった奴が勝つ。あの頃はそう信じるしかなかった。


OFFの日は必ず走り込みを行い、近くの公園で暗くなるまでひたすらドリブルの練習をした。
父親に手伝ってもらい、グラウンド周回のタイムを測ってもらったこともあった。

OFFに走り込みを行わないと不安で仕方なくなり、ムズムズする程だった。

継続することで、少しずつではあるが、明るい光が差し込むようになってきた。



徐々に風向きが変わっていった



そんなことを続けているうちに、何となく風向きが変わりだしたのは、中学3年生になる前の春休みに行った静岡遠征だった。

遠征中の練習試合でたまに組むベストメンバー。
そのメンバー選考で、今自分がどの立ち位置にいるのかを把握することができる。

以前はここに絡めたり絡めなかったりとフラフラしていたが、静岡遠征からは明らかにガッツリと絡めるようになっていた。


正直、かなり自信がついた。「よし!」
「自分がやってきたことが間違いではない」そう思えた。

同時に、「努力は報われる」ことを体感できた瞬間でもあった。


3年生春に行われるクラブユースからは、遂に背番号も7番に変わった。

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初の全国大会



3年生の秋から冬になれば、いよいよ負ければ引退の世界に入ってくる。

中学生の中で最後の大会は、高円宮杯である。
この大会には、Jリーグの下部組織や街クラブは勿論、中学校の部活も出場する、所謂、真の日本一を決める大会である。


小倉南FCは地区予選から無類の強さを発揮し、
福岡県大会ではアビスパ福岡U-15に3-2で勝利して優勝、次の九州大会でも決勝で海星中学(長崎県)を2-1で倒して優勝した。


いよいよ次は念願の全国大会。
チーム全員が本気で全国優勝を狙っていたし、本気で出来ると信じていた。

しかし、他にも多数チームがある中、グループリーグはとんでもない組に入ってしまった。


Aグループ

小倉南FC (九州1位)
京都サンガF.C. U-15 (クラブユース全国優勝)
FC東京深川U-15 (関東予選突破)
青森山田中学 (中体連全国準優勝)


当時、京都サンガには駒井善成、
FC東京深川には武藤嘉紀や峯達也(2人とも後のチームメイト)
青森山田には柴崎岳や差波優人、櫛引政敏らがいた。


初戦は京都サンガ。
先制したものの、終了間際に逆転を許し、惜しくも1-2で敗れた。
感覚的には "負けたけどやれる。次はいけるぞ" だった。(但し、駒井は別格だったw)


次戦はFC東京深川。
初戦を落としているミナミにとって、この試合の負けは敗退を意味する。
前日から会場の石巻に乗り込み、万全のコンディションでチーム全員が相当のモチベーションを持って臨んだ。

高いモチベーションのおかげもあってか、幸先良く2点叩き込み2-0。
「いける!勝てる!」誰しもがそう思った。

しかし、この2点でFC東京の目を覚ましてしまった。
前半のうちにあっさりと追いつかれ、2-2。
後半は完全にペースを握られ、4点も叩き込まれた。

結果は2-6。
強すぎた。衝撃的だった。
九州で優勝し、本気で全国優勝出来ると思っていた自分達に現実を突き付けられた。



この瞬間に、中学校のサッカー人生が終わった。
チーム全員で宿舎へ帰り、ミーティング。


勿論、"引退"が決まったことで全員泣いている。
自分も入団してからの3年間を思い返すと本当に泣けてきた。「色々あったな〜」と。本気だったからこそ、本当に悔しかった。
(因みに、最終戦の青森山田戦は、1-1のドロー)


そして、一度も涙を見せたことがない野口監督と、3年間で何度も怒られたエガ(江頭コーチ)も泣いていた。

「ここまで連れてきてくれて有難う。。。お前らは本当に強かったよ。」と。
思い返すと今でも泣いてしまいそうだ。全員で何十分も泣き続けた。


本当に悔しかったけど、格別な経験だった。
そして、バスで仙台空港へ向かう途中、最後の最後に中学生ながら思った。


「努力は必ずしも報われるものではないんだな」と。


王さんの有名な言葉がある。

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今思うと、あの時の努力は足りなかったのかもしれない。京都サンガやFC東京のメンバーは5時間も6時間も練習していたのかもしれない。

でも後悔はしていない。自分には3年間を通してやり切ったという感覚があった。


そして、この3年間で、自分の中には

◆先ずは何でもやってみる
◆とにかく量をこなす
◆努力(と思っていても)は必ずしも結果が出るわけではない

というマインドセットがされた。
そしてこれらは、今の自分の行動の軸となっている。



最後に



"ミナミ"という小さいけど偉大な街クラブ
この箱には、人としての力を伸ばす要素が揃っている。そして、最高の監督・コーチから指導を受け、最高の同期に出会うことができる。


自分のミナミの同期には、Jリーガーになった者や外資系生保で全国No.1を取った者、弁護士になった者、社長をしている者、単身オーストラリアへ行っている者、GAFAで働く者など、凄い奴らがたくさんいる。


自分も刺激的な同期に負けることなく、これからも前に進み続けていくだけだ。

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