感覚的な必然性──弾幕STG『怒首領蜂』のBGMから

 今回は、感覚的な必然性がつくる効果によって、受け手に対し鮮烈な印象を与える表現が可能になるという話に関し、ある例、『怒首領蜂』という弾幕シューティングゲームのBGMから考えたい。ただ、それを理解してもらうにはやや長めの背景を説明する必要がある。ちなみにこの記事は、以前に公開した記事の末尾で投げかけた問いについて、俺のほうで用意した解答となっている。手前味噌な感はあるが、もしこの記事を前に読んでいたという方が引き続き今回の記事も通読してくれるなら大変うれしい。

 弾幕シューティングというジャンルのゲームにおいて、現在最も知名度があるのは『東方Project』であることはほぼ間違いないだろう。画面を埋め尽くさんばかりの弾が美麗な模様を描き、プレイヤーの操作する自機はその隙間をぬって移動しながら敵を倒していく。こういった特徴は弾幕シューティングに共通するものだが、一方、『東方』のプレイ画面を改めて見てみるとこんな疑問もわいてくる。この手の、小さな自機を移動させて敵を倒していくシューティングゲームというのは、ほとんどすべて弾幕ものではないのだろうか? 近年はスマホアプリのゲームで、弾幕ものではないシューティングもそれなりの数が出てはいるのだが、しかし一昔前、誰もがスマホを持っているわけではなかった時代までは、世間ではシューティングというとFPSか弾幕シューティングかという感があったように個人的には思う。とするなら、『スプラトゥーン』はある意味で穴場を突いた市場戦略だったのではないだろうか(筆者はゲームにそこまで網羅的な知識があるわけではなく、間違っていたら申し訳ないです)。

2004年に発売された『東方永夜抄』の5面。ここでのザコ敵の出現位置やタイミング、それらがBGMとあいまって作り出す弾幕のリズムは、俺が文章を書く上で大事な指針である。ちなみにこの面のボスでは弾幕が横にズレて重なり合うところにBGMの盛り上がりがくるようになっているが、最初見たとき「これ作った人の感性すさまじいな」とえらく圧倒された記憶がある

 もちろん弾幕ものでない有名シューティング作品なんて昔からいくらでもある。KONAMIの『グラディウス』、タイトーの『ダライアス』、アイレムの『R-TYPE』といったシリーズ作品は不朽の名作として認知されている。が、これらはすべて自機の進行方向が横、画面も横長、要するに「横シュー」なのである。縦長の画面で前に向かって自機が進む、という前提で言うとやはり俺自身は弾幕の押し寄せてくるイメージを持ってしまう。この印象はそれなりに一般的なものだと考えているのだが、いかがだろう。
 話を本題に移す。弾幕シューティングというジャンルは、1997年にゲームセンターなどで稼働開始した縦シューティング『怒首領蜂』に端を発するとされる。つまりこれ以前に弾幕ものというジャンルはなく、実際『怒首領蜂』の前身である『首領蜂』においては弾の数は一般的なシューテイングゲームのそれと大きくは変わらなかった。以後、『怒首領蜂』の開発元であるCAVEは、『エスプレイド』『ぐわんげ』といった傑作によってこのジャンルを確立した。他社もその後を追い、弾幕シューティングはゲームセンターにおいて一時期存在感のあるジャンルとなったのだ。
 弾幕ではない縦シューティングといえば、例えば『達人王』などが有名だし、個人的に俺が好きなものとしては『ウルトラ警備隊』などがある。プレイ画面(こちら。念のために言うと俺のプレイではない)を見ていただければわかる通り、画面を埋め尽くさんばかりに弾が溢れているというビジュアルではなく、ある程度自機を正確に狙って弾は飛んできている。シューティングと言えばそういったあり方が一般的だったゲームセンターのシーンに、ある日現れたのがこの『怒首領蜂』だった。

(どこかのうまい人のプレイ動画。こういうものを引用するのには幾分ためらいがあるのだが、この会社の作品のプレイ動画がいくつも削除されていない状況をみる限り容認されているとみなしてよさそうだから、ここに載せてしまう。以降、本文で一部時刻指定があるのでこの動画の当該箇所を参照してほしい)

 では、当時の基準では並外れて量の多い弾を避けることをプレイヤーに強いる『怒首領蜂』というゲームは、このころのゲーセンで突き抜けて難易度の高いものとして君臨していたのか? というと、全くそうではない。よく言われることだが、画面を埋め尽くす弾幕は実はある程度規則的に広がるため、どのあたりにいれば当たらないかの憶測がそれなりに可能であり、加えて自機の当たり判定が非常に小さい上、敵の弾の速度が従来のシューティングに比べて遅いことや、敵弾の軌道を誘導することがわりと容易であることから、よく見て避けようと思えば実はそれほど難しくもない。自機の攻撃力が高い──攻撃範囲が非常に広いなどの理由によって──ことも遊びやすさに拍車をかけているし、いざとなれば画面全体を攻撃しつつ無敵状態になれる「ボム」がある。ボムには回数制限が設けられているが、とりあえず危なそうな場面で適当にボムを打っていれば、1~2面クリアくらいは難なくできてしまうものだ。
 つまりは、「見掛け倒し」なのである。実際、ボス戦のBGMは、特にイントロ部分においては異様とも思えるほどに迫力のある音づかいで、むしろ滑稽で馬鹿馬鹿しいとすらいえる。1面のボス(動画の4:13~からステージクリア画面まで)なんてある程度ゲームの経験のある人にはほとんど手ごたえがないくらいだ。やたらといかめしさを強調するかのようなBGMが流れている中であっけなく倒されてしまうボスの巨体を前に、初見のプレイヤーは肩すかしを食らったかのような気持ちになるかもしれない。
 だがこの『怒首領蜂』というゲームがまったく容易に全面クリアできるかというとそうでもない。1面クリアは難しくないと先ほど述べたが、3面の中盤か4面あたり(動画の6:20あたり)からステージは難しさを増してくる。コンテニュー、残機を使い果たして100円を投入しプレイを継続することをせずに6面まで到達するのにはそれなりに慣れが要るし、そして何よりこのゲームには「2周目」がある。特定の条件を満たして6面をクリアすると、それまでプレイしていた1面から6面が改変されて難易度が上がったものを再びプレイすることとなる。つまり都合12面あるわけだ。2周目はそれなりでは済まない程度に難しいものだし、プレイヤーは必然的にゲームへのめり込むことになる。それもまたクリアしてしまうと、隠されたラスボスが現れる(動画の39:58~)。
 この「最終鬼畜兵器」においては、それまでのボスBGMとは異なるものが使われている。それまでのやたらテンションが高い曲とは異なり、ゆったりした曲調がむしろおどろおどろしさを漂わせ、プレイヤーはいよいよ冗談ではなくなったとの感を持って、それまでのボスの倍以上もありそうな巨躯に立ち向かうこととなる。1面から6面までのボスは体力ゲージが表示されていたので、ゲージのバーがそれなりの速さで目減りしていくのを見られ、ある程度落ち着いて戦うことができていたのだが、しかし「最終鬼畜兵器」でとの戦いでは体力バーが表示されない。だから、押し寄せる弾の雨あられをかわしているうち、一体これがいつまで続くのかと不安になってくる。ゆっくりとした恐ろしいBGMは、「早く、早く終わってほしい」というプレイヤーの焦燥感をかきたててくるのだ。
 激戦の末、最終鬼畜兵器の機体が爆発し始める。(動画の40:48)これで終わったか、と思ったら、爆炎の中から真っ赤な小さい機体が現れる。今まで自機の飛行とともに前に向かっていた画面は突然逆に流れはじめ、自機が逃げているかの状況で、あの今までに何回も聞いたボスのBGMが再び流れるのだ。真のボス、「火蜂」が弾を放ち始める。
 火蜂の攻撃は相当に激しいもので、とても避けられそうにない速さで大量の弾の波がこちらに押し寄せてくる。傍で見ているともはや悪い冗談のような物量だが、プレイヤー自身は身をすくめながらも真剣にプレイせざるを得ない。これまで難所をかいくぐる中で、プレイヤーはこのゲームの冗談めかした世界観にいつの間にか没入しきっている。そのくらい集中していないと、2周目までのクリアはできないだろう。だから、ボスBGMのあの馬鹿馬鹿しいイントロは、この「火蜂」との戦いのなかで本当に恐ろしいものとして聞こえるのだ。
 この逆転現象、無意味で大げさな、見掛け倒し的な意味をボスに付与していた派手なBGMが、本当に恐ろしいものとして聞こえるという転回に俺は表現する者の高度な技術を見出している。すなわち、時間差を経てあるものがまったく違って見えるということ。それを計画するのには感覚的な必然性のもと、構想のなかでしっかり計画することができなくてはいけない。そしてそれは非常に困難なことである。
 この手の、感覚的な必然性に基づいた高度な表現というのは探せばいくつもある。例えば初代『ポケットモンスター』における、明らかに意図された不規則性(冒険の最初期に現れるいあいぎりで切れる木を調べて手に入ったキズぐすり、ポケモンセンターで回復するときの音の細かなレパートリー、ライバルと遭遇したときのBGMがラストダンジョン直前の戦闘時だけ再生速度が速い、チャンピオンロード出口の一見無意味な配置の迷路)などはその典型と言えるだろう。これらは、明らかに強い効果を持っていながら、その効果のしくみや由来が一見するだけではわからないせいで、謎めいた強い感覚を与える。その感覚が強ければ強いほど、謎めいていることへの困惑、そして興奮は大きい。作品という異世界へ受け手をいざなうにおいて、感覚的な必然性は必須のものであると俺は考える。『怒首領蜂』のBGMはその端的な例であり、優れた手本なのである。

追記:
 今回述べた気づき、すなわち『怒首領蜂』ボス戦のBGMの機能が転換するということを理解したのは、記事に述べたような理詰めによってではない。火蜂との戦闘において、BGMのエレキギターのサウンドが“泣いて”いるように聞こえる、もっと言えばBGMのせいで、大量の弾を吐き出している火蜂が“泣いている”ように見えたことが気づきの始まりだった。ではなぜそのように自分は感じているのだろうか? と考えた結果、このような思考を経ることとなったわけである。自分が何かを感じていて、しかしその内容がはっきりしないとき、その実態をつかむために頭の中で感覚をたどるというのはけっこう難しいものだ。こういう直感の経路を意識して辿ろうとし始めてからそれができるようになるまで、俺は6年ほどかかった。そういう理解の仕方の元々は精神分析などの精神医学からきているものだが、自分の思っていることの実態というのは当人にとってもそこまで自明なものではないのである。
 今回の記事は前置きの分量が長くなってしまったが、どうしても弾幕シューティングの歴史に触れなければこのBGMの効果に関する理解というのを過不足なく伝えることができなかった。
 その辺の歴史を説明するにあたりもっといろいろなウンチクを述べたかったのだが──例えば縦シューで画面が横長の作品に『ギガウイング』があるなど──こういう話は俺よりももっと面白く語れる人がいるだろうから省いた。ただ、CAVE社の『エスプレイド』は時代の空気を映す傑作だと俺は思っている。90年代後半のオタク文化にはまっていた方ならなんとなくわかっていただけると思うのだが、「中華料理店に入ったときのムワッとしたにおい」みたいな雰囲気がこの作品からはあふれ出ている。俺にとって『エスプレイド』は原体験の一つだし、あのころの二次元文化の空気感を追求しようという決意をより新たにした20歳の冬のことは今でも折に触れて思い出す。Switchなどに移植されているので、気になる方はプレイしてみてもいいかもしれないが、ただしそうとう値は張る。レトロゲーを扱う一部ゲーセンではまだ稼働しているので、探してみるのもいいだろう。
 ついでに言うと、『R-TYPE』のアイレム社のゲームで『野球格闘リーグマン(英題:Ninja Baseball Bat Man)』なる奇妙なゲームもある。これもだいぶ面白そうなのだが、稼働しているゲームセンターに行くしかプレイする方法がなく、そして相当古いゲームゆえプレイできる店はもうほとんどない。昨今のレトロゲームブームの波に乗って、これも移植されたりしないだろうか……。


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