見出し画像

すごい人を「才能」で片付けないこと

自分のアジャイルジャーニーを続けている最中で、たくさんの人と会うことと思います。その中で「これが天才か!」「努力する才能がすごい……!」と思わず崇めてしまうような素晴らしい結果を出している方と会うことがあります。そうしたときに「自分もああなりたいな」という気持ちと「自分はああはなれないだろうな」という気持ちと、揺れ動くことがあるのではないでしょうか。

私自身、多くの場合は「尊敬していて、あこがれではあるけど、自分はああはなれない」で落ち着いてしまうことがあります。これに対して私たちはどう向き合えばよいのでしょうか。

本記事はシン・アジャイルのアドベントカレンダー、12月5日の記事です。

「才能」と言って自分が楽になりたいだけ

このことを書くきっかけは、私自身が前回の記事の通りモヤモヤが続いている中で、何かヒントが欲しくてGRITという本を読んでいてとても刺激を受けた一節にあります。

「あまりに完璧なものを見たとき、我々は『どうしたらあんなふうになれるのか』とは考えない」その代わりに「魔法によって目の前で奇跡が起こったかのごとく熱狂してしまう」

出典 「やり抜く力 GRIT」アンジェラ・ダックワース (著), 神崎 朗子 (翻訳) 

これはニーチェの言葉の引用とのことですが、自分に刺さるものがありました。よく「天才」とも称されるような一流の人間は裏で膨大な努力をしているものです。本来であれば才能と努力はべつものであるのにも関わらず、その努力を続けている様すらも「努力は才能」とレッテルを貼り、自分は持っていないものとして努力からも逃げてしまうことが本の中で指摘されていました。

わかりやすい例で言えば、井上尚弥選手や大谷翔平選手のような一流アスリートです。当然天賦の才能もあるでしょうが、それ以上にその才能を活かすための努力を続けていることは有名です。アジャイルジャーニーの中でみかける、界隈で活躍されている方ももれなくその努力の積み上げをこつこつと続けてきているのです。誰かの努力を「才能」の一言で片付けてしまうのは、自分が楽になりたいからでしかなく、リスペクトがないことだとも感じました。

先月、「未来の巨匠コンサート」で16歳のバイオリニストの演奏を聞いてきたことをふと思い出しました。演奏前には緊張が見えた表情も、音がなり始めた途端、その美しい音色を響かせる彼女のスキルをなにも知らなければ才能で片付けてしまうかもしれません。ですがもらったパンフレット記事に、「平日は5〜6時間、休日は7〜8時間の練習を、小学校4年生ぐらいから続けています」と書いてあったのです。

「才能」だけではアウトカムに繋がりません。才能だけあっても練習をしなければ上手くなることはなく、成果は出せないのです。ともすれば、成果を出すのは才能の有無ではなく、努力を続けた人がこの世には圧倒的に多いはずなのです。

ジャーニーはスプリントではない

ジャーニーは旅を意味し、旅はスプリントのような短距離走ではありません。走るにせよ、歩くにせよ、ペース以上に大切なのは続けていくことなのだとあらためて気付かされました。「傾きをゼロにしない」という言葉はそのキャッチーさもあって自分の中で時々呼び起こされる言葉のひとつでもあります。この「傾き」はそもそも何の「傾き」なのか。歩んでいるだけでいいんだっけ?旅の目的地に近づけているかが大事なんじゃないか?

自分自身もそれを理解してnoteやQiitaやらを続けているつもりではあるものの、そもそもなぜ続けているのかをわからなくなるというよりは見失うこともあります。そうしたときにも、目標が明確なスプリントではない、長旅であるジャーニーであるからこそ、こんな感じで進んできたけど、行き先はこれで良いんだっけ?と自分に問いかけることが大事なのだと思います。その道中でなにか学んだら、それも残していくこと。ふりかえり、むきなおり、ものわかり。

こういう話は誰に話してもあたりまえに重要だと同意してもらえることのはずです。ですが、アジャイルに出会う前までの自分がこれをうまくできていなかったように、このあたりまえに思えることを続けていくことが多くの場合できていないのがあたりまえなのかもしれません。ただ、自分の目に入るすごい人、才能に溢れていると感じる人、バイタリティに溢れていると感じる人はそれが出来ているのです。完全に同じようにはできなくても、アジャイルジャーニーに身をおいていれば基本はわかっているもの。

自分のアジャイルジャーニーを見つめ直してみます。その機会をくれたアドベントカレンダーありがとう!

よろしければサポートお願いします!いただいたサポートは書籍やテック・アジャイル関連のイベント参加などに使い、レビューの公開をお約束します。