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Withコロナ環境での合唱練習のリスクを計算してみた

※私は医療や統計の専門家ではありません。この記事はあくまで自分の考えを整理するために書いたものです。素人の論考なので、判断の基準としての信頼はおかないでください。前提の訂正などのご連絡は歓迎します。

リスクの種類について

合唱練習のリスクは大きく2つに分けられると思う。

1.感染リスク
2.社会的リスク

感染リスクとは文字通り自分や自分の近くの人たちが感染するのか、したらどうなるのかということ。社会的リスクとは、もし感染が起きたとしたら社会に迷惑をかけないかということ(医療崩壊や風評被害などを含む)。この2つをごっちゃにして話すと議論が成立しないので、どちらの話をしているかを分けて考えることが大事だと思う。

そして個人的には、後者(社会的リスク)については、政府自治体のガイドラインに従うとするしかないと思う(そもそも練習場所が使えるのかどうかとかも含め)。業界のガイドラインというのもありうるかもしれない。社会的な許容度について判断することは線引きがとても難しく、個別の団体が判断するべき部分ではないのではないだろうか。それらの公的なガイドラインでは不十分だ、という個別の判断はありえるし、違う行動を取っても良いとは思うけれど、その個人の気持ちを根拠に他者を批判してもしょうがないと思う。たとえば極端な話、社会が「合唱OK」となったとして、そして実際に感染が発生したとして、その社会のガイドラインに従ったコーラスが責められるような状況はおかしいと思う。

ただし、ガイドラインで明確に「OK」とされるかどうか分からないという問題は残る。曖昧な物言いしかされない場合は、1.感染リスク とセットで総合的に判断することになるかもしれない。実際問題、日本において何かの行動を明確に「禁止」することはよほどのことが無い限り難しい。おそらく、できる限りの感染対策をした上でなら、というのが要請になると思うし、落としどころであると思う。

感染リスクについて考える

さて、2.社会的リスクについては上記のようにこの記事ではこれ以上検討しないことにする。次に 1.感染リスク を考えてみたい。

あちこちで何度も言われていることだけど、このウイルスは本当に厄介だ。感染力がそれほど強いとは言えないけれど、それなりに高くて、ひとたび重症化すると死亡リスクが無視できないレベルで高くなる。そしてそのリスクは基礎疾患があるかどうか(通常の老化現象も含む)で大きく変わる。言うなればハイリスク者とでも言うべきものがいて、そしてハイリスク者と頻繁に接触する環境の人は準ハイリスクになる。気をつければ何も起きないけれど、ひとたび感染するとハイリスク者の生命がダイレクトに脅かされる。怖くないけど、めちゃめちゃ怖い。

感染リスクはワクチンや治療薬が揃えば低くなっていくけど今のところまだ確かなものは見えていない。少なくとも当面、―ハイリスク者および準ハイリスク者は特に― ハイリスク環境を避ける必要がある。ではハイリスクを避けるとはどういうことか?

無症状の感染者が一定数いる可能性がある場所(地域)では:
1.汚染の可能性がある自分の手が粘膜に触れないようにすること
2.飛沫の直撃を避けること
3.閉鎖環境で声を出す状況(エアロゾル濃度が高い)に長時間いることを避けること

※ 感染経路については『科学と、合唱活動の近い将来について。アメリカ4つの合唱団体による共同提言』のウェビナー翻訳記事を参考にした

1.の対策は手指消毒および手の接触に気をつけること。2.の対策は向かい合わないとか距離を開けるとか。3.の対策は部屋の容積と換気。感染経路は複数あるのでおそらく「全部」考慮する必要がある。

無症状の感染者の可能性をどう考えるかについては難しい。たとえば感染者ゼロが長く続く地域で外部から人の流入がないと仮定すれば、そもそもこれらの対策は不要になる。ただゼロリスクにはおそらくならない。なら、どの程度のリスクなら許容可能なのか? この基準を考えてみることに意味はあるかもしれない。

合唱の練習に感染者が紛れ込む確率をどう見積もるか?

さて、シミュレーション用なので数字は何でもいいのだが、とりあえず東京アラートの1日20人を基準に考えてみる。まずは合唱の練習に有症状の感染者は来ないという前提のもとに、無症状感染者の数を知らなければならない。Timothy W Russell らによる論文(未査読 2020/6/21更新版)では、致死率のデータを入院期間などを用いて補正し、日本においては真の感染者数の46%(信頼区間95%で29%~67%)が補足されていると推定している。また6/16発表の東京都の抗体検査によれば抗体保有者が確定陽性者数の少なくとも2.5倍いたと推定できそうである(※)。

※とはいえ、(1) 結果の絶対数が少なすぎる (2) メーカーによって結果がかなり違う (3) 抗体が果たしてどの程度の期間検知可能な状態で残るかが現時点では不明 なので、こちらの推定は桁が違うレベルで異なる可能性はある。

偶然かもしれないがこれらの結果はそれなりに似通っている(2.5倍と2.17倍)。どうも日本の現状であれば10倍はいなさそうだ、という程度の想定はできそうである。少し厳しめに見て、論文の95%信頼区間下限値の29%を採用し、確定陽性者に2.44(71/29)を掛けると無症状の感染者数が出るとしよう。

ただしやっかいなのは、当日のリスクは未来にならないと分からないというところだ。Sars-CoV-2の潜伏期間は平均4~6日、長くて14日間、また発症の3日前から伝染性を持つといわれている(参考)。なので、ある日の潜在的な感染者数がどのくらいいたのかは、そこから数日経ってみないと分からないのだ。たとえば、ここ数日の東京都の発表感染者数が0人だったから練習をしたけれど、その後数日で感染者発表の平均が100人に膨らんだとしたら、練習日のリスクは0人ではなかったということが「後から」分かる。

未来は読めないのだから何も保証はできない。まあでもとりあえず、トレンドが変わらないという想定で計算してみようと思う。4週間ずっと20人が続いていたら、今後も20人が続くと思うかもしれない(その想定に根拠は何もないのだけど)。補足された感染者が20名なら無症状の感染者は 20 x 2.44 ≒ 49名。無症状のまま伝染性をもつ日数を3日とおくと、49 x 3 =147 人 が合計の想定感染者数になる。これは東京の人口1400万人で割ると 14,000,000 / 147 = 95,238人に1人のレベルになる。

さて、95,238人に1人が感染者かもしれないとして、100人のコーラスで考えると、そのコーラスに1人でも感染者がいる確率は1/952になる。さらに、接触の可能性は毎週変化するので、このくじ引きを毎回することになる。毎週練習するコーラスは、仮に毎月が4週だとしたら、12ヶ月で48回練習をすることになるので、1年状況が変わらないという前提だと、1年以内に1度でも感染者が紛れ込む確率は 1-((951/952)^48) ≒ 0.05 = 5% 程度になる。

この数値をどう捉えるか。高齢者なら下手すると10%の確率で死亡する感染症に出会う確率が1年で5%というのは、全く無視できないと思うけれど、考え方は人によるかもしれない。そもそも、これらの数値は仮定に仮定を重ねた上でのことなので、実態はかなりずれる可能性がある。特にクラスタが追えなくなるケースが増えると、無症状感染者の推定数が大きく変わるだろう。

ただし、もちろん、感染者が紛れ込む=感染ではない。感染経路(接触、飛沫、エアロゾル)別に対策することで感染リスクは少なくできる。ただこれらの方策にそれぞれどの程度効果があるかは現時点ではわからない。

見えない感染リスクを下げるために

ゼロリスクは不可能だけれど、リスクを下げることはできる。常に正しいのは 1.人が多ければ多いほど接触リスクは高くなり 2.接触回数が増えれば増えるほどリスクは高くなる ということだ。なので、練習人数を減らすか回数を減らすことは感染リスクの低下につながる。毎週の練習ははたして本当に必要なのか、と検討した上で、たとえば集まって歌うのは感染症対策を可能な限りやった上で月1回だけとし、残りはオンラインで実施する等は考えられると思う。人数を減らして実施することも役に立つと思う。

個人的には、無症状の感染者がコーラスの練習に入ってくる可能性を否定することはできない(そもそもリスクの計算すら難しい)のだから、入ってくるという前提ですべての練習を計画する必要があると思う。これは実際のところ合唱に限らずあらゆる集団活動にあてはまることだけれど。

一喜一憂はリスク

このような計算にどの程度意味があるかは分からないけれど、個人的には「心構え」はとても大切なことだと思っている。

感染者数は今後も上下する可能性が十分にある。そのとき、その数値をどう捉えればいいのか? 世の中がどういう「雰囲気」なのかではなく、どういう根拠でコーラスの練習を計画し、参加するのか?

もちろん世の中の雰囲気というものは、いろいろな人が頭を使って必死に考えた「結果」だったりするので、一概に否定するようなものではないかもしれないけれど、状況が不安定な環境では常にそうとも限らない。エイヤで活動するところもあるかもしれないし、深く考えず単にそれをフォローしているところも出るかもしれない。

感染者数が一時的に落ち着き、行動抑制が解かれ、そして感染者数が増加し、また抑制が強化され、いろいろな人がいろいろなことを主張し。そのたびに雰囲気に流され、一喜一憂すると心が疲れてしまう。

好きだったはずの合唱が、面倒でイヤなものになってしまう可能性がある。もうすでにそう感じている人もいるかもしれない。参加メンバーもそうだけど、コーラスの運営に関わる人は特に大変だと思う。

事実に対して誠実に。人にやさしく。思いやりをもってコミュニケーションすることが必要だと思う。

合唱の未来

情報が限られているときは、どんなに考えても限界はある。だからできる限りのことをして、あちこちでトライすることが増えるのではないか。極端な話をすると、その中で、ひょっとしたらクラスタがまた発生する可能性も否定できない。オンラインでの活動などの挑戦も増えている。そうして、世の中全体の経験が増えていき、そのときに新しい合唱の姿が見えてくるのだと思う。

最初にフグの安全な食べかたを発見した人間はいるし、タバコや酒を止めないという個人の選択もある。車は花粉症や喘息に対して悪だけれど、移動を楽にしてくれる。飲食店が営業することでリスクは上がるけれど助かる人もいる。たぶん「他人に迷惑をかけない」というだけの単一の基準では社会も文化も止まる。そこにはフロンティアがあって、冒険者がいる。そうするべきとか、しないべきとかに関係なく、おそらくそうなる(私だったら絶対しないことでも、する人は出てくるだろう)。そのときに前線で戦うか、それとも後方で支援するのか、様子見するのか、100%個人の自由だと思う。人は自分の信念に従って行動するしかないのだから。

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