手段の目的化、目的の手段化 【211/200】
今週はいろんな会議でいろんな議論をした。
ビジネスプランを考える時、前提に「これだけの規模の儲けが見込める」が組み込まれてることが多い。
僕はこれが苦手。
どの議論も、ビジネスという手段を通じてこういう価値を社会に提案しよう、という目的から出発する。
でも、のっけから「このチームが株主とか市場から期待される規模の売上利益はこれだよね」の前提から議論が手段論に傾倒する。
目的があいまいな美辞麗句のまま取り残されて、手段論の結論に合わせるように「目的とずれてないよね?」と解釈を寄せていく。
目的について深く議論されていないから、目的と手段が合ってるか判断できないままタイムアップで合意形成されて、後から理論武装のお化粧をしていく。手段が目的を牛耳る。
逆に、目的だけあいまいなまま議論し続けてどこにも着地できないことも不幸で。
実行する作業が決まらないストレスに耐えられなくて、目的を論理的にブレイクダウンして目標・KPI設定して、それを達成することに集中する。
目指すものがはっきりしてチームが前に進むのはよいけれど、それを達成することが本当に目的なのか、それは手段に変わってしまったのか、わからなくなりがちな気がする。
目標・KPIを達成できなければ、目的に合っていないのか?
みたいな問いが生まれる。
僕はそんなことはないと思うし、目標達成ができなくても、目的に則して活動すること自体に意味があると思っている。
手段の目的化も、目的の手段化も、もやもやするポイントは結局同じなのかもしれない。
「やりたかったことは本当にそれなんだっけ?」みたいな疑問が生まれた時点で、手段の目的化・目的の手段化が起こっている気がする。
目的と手段が調和してちょうどいい感じで活動ができているか。
それを点検できるのって、結局、定性的な幸福感とか充実感みたいなものしかないんじゃないかと思う。
しんどい感・物足りない感とか、なんとなく違和感を感じ始めた段階で、振り返りと調整をしていく、みたいな。
組織の論理と個人の気持ちって、一致すること自体が奇跡みたいなものだから、組織人のしての自分と、個人としての自分と、相矛盾する考えが発生して当たり前。
それぞれの気持ちをどちらも受け止めて、バランスよく譲り合いながら、調整をとっていくのがいいような気がする。
なんか、そんなことを考えた今週。
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