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アフターコロナの世界をめがけて

1)前置きとしての結論

今日も自宅で過ごしている皆さん、こんにちは、こんばんは。なんだか憂鬱な毎日、ですよね。僕も最初はそうだったんです。テレビをつけたらコロナコロナ。ネットもなんだか殺伐としてる。ところが、ちょっと最近は違います。この感触はなんだろうというのが、最初の疑問でした。

家の近くに小さい山があるので、毎日午前中、僕は山を登っています。まだ僕の住んでいる地域には外出制限は出ていないし、山に行くにしてもほぼ誰とも会わないので、感染リスクも今はまだゼロに近いでしょう。もちろんこの習慣も、僕のいる地域に外出制限の要請が出るまでのことですが、今は健康のことも考えて、往復だいたい40分くらい。今日も歩いてきました。

山を歩いていると、春の終わりを感じます。風が吹くとどこかから桜の花びらが飛んできます。社会活動全体が低下しているせいかやけに空気が綺麗で、胸いっぱいに吸い込むと、春の名残が全身を駆け抜けていくような気持ちになります。あれ、これっていま「自粛」の世界線だよな?と、ふと疑問がわきます。妙になんか、清々しい。

もちろん、足元に目をやると、自分の毎日が現実的に脅かされているのがわかります。4月はまだ2月ころの仕事の分の収入が入ってきますし、5月もまだなんとかなりそう。でも、6月以降はおそらく悲惨です。なにせ4月は撮影の仕事はゼロ。当たり前ですが収入は激減の予定です。5月も期待できない。もちろん、そういうことも想定して、ある程度の蓄えをしていましたが、それでも収入が激減するのは楽しいことでもない。不安は残ります。僕のような固定費の少ない業種でもそうなのに、飲食店を経営している友人たちの不安はいかばかりか、とても心配です。

あるいは、もっと根源的な恐怖もあります。それは少しずつ「数字」が増えていることに対する根源的な不安です。パオロ・ジョルダーノが『コロナの時代の僕ら』で書いたように、僕らは今、無慈悲な「数字」をカウントすることを強制されている。数字はときに希望でもあり絶望でもありますが、今世界中の人々が数えている数は、僕ら人間の「生」を根源的に脅かすものです。それがひたひたと自分に近づいていることは、その増加をグラフにしてみれば瞬時にわかります。

でも、それなのに、不安やストレスとともに、それに負けまいとする力もまた、内側から湧いてきます。その理由を考えてみたのがこの文章です。

長い文章になりそうなので、今日の結論、先に書いておきますね。僕は小さな希望を語りたいと思っています。このコロナ禍が吹き荒れる世界のどこに希望がと思われるかもしれません。あるいはこれからもっと過酷な現実が出てくるのかもしれません。いや、むしろそうなるでしょう。少しずつ医療崩壊が見え始め、都市部を中心にコロナの罹患者はどうやらオーバーシュートに至りつつあります。でも、だからこそ希望について思いを馳せたい。

そのキーワードは「リモート技術」と、それがもたらす僕らの「想像力」の拡張だと思っています。それがアフターコロナの世界に見出す希望であることを、僕は今日書いておきたい。

政治家は国と国民のこと考えます。科学者は今の現状を自らが学んできたこれまでの知見に基づいて、この過酷な現実で今まさに起こっている深刻な事態がなんとか収まる方策を考えます。お医者さんや看護師さんたちは、最前線で自らの身命を賭して、患者とともにこのウイルスと戦っておられます。彼らは高度な専門的な力によって、今、僕らが知る中で最も荒ぶる姿を見せつけているこの過酷な「現実」に、全身全霊の戦いを挑んでいる。僕のような文系の研究者には、残念ながらそういうことはできない。

僕にできることは、予兆を見ることです。もう少しだけ良い単語を選ぶなら、まだ明らかに見えていない「光」を感じることでもあります。不安と焦燥の網の目の中にわずかに潜んでいる光の感触を探し出すこと。それくらいしかできない。でも暴力的な程に強烈な不安の闇の中にあって、未来への展望を見出そうという試みは、怯えて過ごす夜の闇にあって、足元を照らす僅かな光になるかもしれない。

上に名前を出したパオロ・ジョルダーノは『コロナの世界の僕ら』のあとがきの中で、この今のコロナ禍が終わったあとに思いを馳せつつ、「本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか」と問を発しています。悪いことが終わったあと、僕ら人間はそれらを恐ろしいほどに「忘れよう」とする生物であるからこそ、今まさに毎日起こっている「忘れてはならないこと」を、アフターコロナの世界に残しておかなくてはいけないと、ジョルダーノは言います。そして彼は最後にこんなふうに締めています。

 家にいよう(レスティアーモ・イン・カーサ)。そうすることが必要な限り、ずっと、家にいよう。患者を助けよう。死者を悼(いた)み、弔(とむら)おう。でも、今のうちから、あとのことを想像しておこう。「まさかの事態」に、もう二度と、不意を突かれないために。
https://www.hayakawabooks.com/n/nd9d1b7bd09a7

「今のうちから、あとのことを想像しておこう」、まさにこれこそ、おそらく今から準備しておかないと、全てが終わったあとの反動的な狂騒の中で消え去ることだと思うんです。今だからこそ見える闇と光、その両方をしっかりと記録すること

そして僕は今日は、希望を書こうと思った。ほんの僅か、遠い遠い光が見えている気がするんです。現実的には、日本においてこれから吹き荒れる絶望のあとへと残しておきたい光。

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2)リアルを遠ざけると、リアリティが欲しくなる

そもそもこんなことを考え始めたきっかけは、この記事を読んだからでした。

はてなの匿名ダイアリー。時々すごい文章が匿名で投下される場所です。読んでいて、「ああ、なんだか分かる」と思いました。春の感触、光、公園、お弁当、子どもの声。「牧歌的」と筆者は書いていて、僕が多分今朝山登りの最中に感じたのもそんな感触です。そして文章の半ばにこんなことが書かれていました。

少し昼寝をして、チャットで戻りましたと言ってまた仕事に取り掛かった。

在宅勤務になってパワハラめいてる上司への緊張と萎縮がなくなった。画面に資料が映ると声だけになって圧が減る。バンバンと机を叩くマウスの音が聞こえないから資料に集中できる。資料が映ってない時は上司のウインドウを小さくしてしまえばよかった。小さい画面の中で動く上司はいかつい顔をしていても怖くない。愉快。

リモートワークで得た、リアル世界で過剰に受けていた「圧」の低減。ああ、そうかと。僕らはずっと見ないふりをしてきたけど、僕らのリアルの世界は「圧」が大きすぎてたんだなあと。筆者は最後にこんなことを書いています。

夜桜を見上げながらずっとこんな生活をしてみたかったと気がついた。
夢が叶った気分でいる。
実際に似たような生活をしていた期間もあったけど、それは無職の時はだった。焦燥感と自罰感情で自暴自棄だった。
ていねいな生活ってこういうのを言うのかな。心のゆとりをもって生活する日々がこんなに幸せなんて知らなかった。
状況が悪化したら心のゆとりなんて無くなるかもしれない。自分や大切な人が死ぬかもしれない、この局面を乗り越えても不況がきて失業するかもしれない。
それでもこの先こんな幸せな春は二度とこないから書き記したかった。

匿名ダイアリーで書いた理由を、筆者は「大変な人もいて不謹慎だから」と書いています。確かに、今の状況で「幸せな春」なんて書いたら、もしかしたら批判を受けるのかもしれません。でも分かるんですよね。ものすごく緻密に組み上げられ、効率を極限まで高めて働くことを要求される世界から一転、たとえ経済が壊れても「家にいろ」という号令がくだり、僕らは日々、ものすごく緩やかでシンプルで、ある意味、非効率的な世界を生きさせられることになりました。

「家に居続ける世界」においては、これまでのリアルな世界が押し付けてきた強烈な「圧」は遠ざけられることになります。そして、この「圧」が魔界転生した最も苛烈な姿こそが、今世界で猛威を振るう「コロナ」です。少しでも逆らえば、自分だけでなく周りも巻き込んで、全てを悲劇に変えてしまうウイルス。誰も逆らえない、未知の病気。「死」という究極のリアルを運ぶもの。その恐ろしい存在から、僕らはなりふり構わず逃げなくてはならないんです。そのためには、我々の生きる「リアル」そのものを今は遠ざけなくてはならない。

一方、僕らは完全に「リアル」を捨てることは出来ないわけです。経済的な側面ももちろんそうですが、もっともっと根源的な部分。生きているという感触であり、そのためには「世界とのつながり」が不可欠なんです。ジョン・ダンが言ったように、no man is an island(人は孤島(=孤独)ではいられない)なんです。でも繰り返しますが、コロナのために、僕らはできるだけ「孤独」であることを強いられている。だから繋がなくてはいけない。

そのために必要になってくるのは、遠ざけたリアルをつなげるための何か。それが、上の文章の中にも出てきた「チャット」です。特に、zoomやskypeといった、映像を瞬時につなげて会話出来るようなツール。上の文章ではむしろ上司の「圧」を低減するために使われているのですが、それこそがまさに肝です。現実の「圧」をコントロールすることが出来るツール。これまですでに導入されていたにも関わらず、あまり普及しきらなかったこれらのツールが、遠ざかる「リアル」を適切にコントロールするための技術として、猛烈な勢いで存在感を増している。それが示している事実は一つです。

僕らは「リアル」を遠ざけることは出来る。でもなくしてしまうことは出来ない。なぜか。僕らはリアル世界で生きるという感覚、すなわち「リアリティ」がなければ、生きる意味を喪失してしまうからです。逆に言えば、「リアル」で生きていても、生きていることの実感である「リアリティ」が喪失されたとき、僕らは死に近づきます。日本社会で自殺が多い原因は、過剰なまでに緻密に組み上げられた「リアル」が、逆説的に僕らの「リアリティ」を奪っていくからです。人間性を捧げて、歯車の一つになることを強制される世界において、どんどんリアリティが希薄になっていったのが、コロナ前までの僕らの世界でした。

ところが、「リアル」を遠ざけなくてはいけなくなったこの世界で、逆に「リアリティ」が増しています。匿名ダイアリーの筆者が、春の風にかつてない喜びを感じたほどに。あるいは、山登りの最中に吸い込んだ空気に、春の名残を感じたように。

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3)ぼくらの「リアリティ」を補完する試み

「リアル」を剥ぎ取られることで、「リアリティ」を求める僕らの心は、これまでのどの時代よりも鋭敏に強まっているんじゃないか、そんなふうに思うんです。その気持が、今、少しずつ新しい「形」をとってきている。例えばこんなふうに。

zoomを経由したポートレート撮影の潮流、zoomグラフィーです。スマホとzoomがあれば誰でも撮影できます。そして驚くことは、びっくりするほどにかっこいい写真が撮れているということ!これがスマホで撮られていたり、あるいは、zoom越しのやりとりだけで完結している点は、最初は驚愕しました。でも、これこそまさに「コロナの世界」においてほんの少しずつ見えつつある、「アフターコロナ」への助走になりうるんじゃないか、そんなふうに思った。それは、リアルの繋がりが制限された結果、「リアリティ」を補完するために、画面の向こう側を想像する力です。その「想像力」がましている今だからこそ、こういう撮影が可能になるんじゃないか。

また、こんな例もあります。

ゲーム「ワンダと巨像」の世界を、フォトモードで写真家が切り取った世界(よこいちさん、さすが!)。「リアリティ」を補完する場所は、何も本当の「リアル」である必要さえない。ゲームもまた、技術的な成熟が徐々に極まりつつあるジャンルで、僕らが「リアリティ」を共有することの出来るフィールドとして機能しつつある気がします。それは僕自身もまた近々に体験しました。

あまりに美麗すぎて、思わず画面に向けてiPhoneで撮影してしまった、FFVII Remakeのミッドガルの光景。撮った後に苦笑してしまったんですが、でもゲームを進めて行くと、そんなシーンが次々に出てきます。そして思うんです、「この世界の中にカメラを持っていきたい!一眼レフで撮らせてくれ!」って。

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4)リモートがもたらす「想像力の拡張」

これらの例が指し示しているのは、すでに書いたように「リアル」が遠ざけられている今、僕らはなんとか「リアリティ」を補完するように心が欲している結果です。写真だけの話ではなくて、例えば「zoom飲み会」も流行っていますね。こんな記事も出てました。

この記事の中でこんなふうに書かれています。

Zoomのいいところは、品質の高い回線さえ用意しておけば、実に自然に"全員同時に喋っていても"それなりに会話が成立すること。回線状況次第ではあるけれど、家飲みで固定回線ならば、ほぼ問題なくワイワイやれます。

問題は「品質の高い回線」という技術的要件。この部分がこれまで整わなかった。さらに、zoomほど多人数が上手く会話出来るソフトウェアもなかったわけです。それともう一つ大事なのは「自然に」の部分。僕らは多分、「自然に話せる」というような「リアリティ」にこだわる生物なんですね。それをようやく技術が可能にした。

でもね、技術だけではやっぱり駄目だったという感じがするんですよね。根深く僕らの間にあった、ネットへの不信感のようなもの。もしかしたら若い人には希薄なのかもしれませんが、僕には未だに「ネットは地図のない荒野みたいなもんだ」っていう、あの90年代末の頃の感触が残っています。

それは裏替えせば、僕らに残っている濃厚な「リアルへの信頼」(あるいは現実への依存)は、そう簡単に書き換わらなかったということです。でも、今この「コロナの世界」においては、先に書いたように、リアルは最も怖い場所の一つです。できる限り遠ざけなくてはならない。でも、僕らは「リアル」を避けながら、「リアルを生きている感触」、つまり「リアリティ」がほしい。この極めて珍しい奇妙な状況において、僕らはついに「想像力」によって「リモートの向こう」へと至る精神的な準備をし始めたんじゃないか、そんな気がします。

コロナが見せつけたのは、本来の「リアル」の持つ剥き出しの過酷さです。エレベーターのボタンを触るだけで感染するような状況において、僕らは「リアル」を手放さなくてはならなくなりました。今何よりも怖いのは、「リアル」そのものなんです。一方、恐る恐る手をだした「画面越しのリアリティ」(例えば画面越しで伝わる人の姿を写真で撮ったり、緻密に描かれた空想世界のスクショを撮ってみたり)は、意外にも悪くなかった。いや、意外にもというより、「もしかして、これ面白いんじゃないの?」という感触。リモートの技術や、CGグラフィックの緻密さといった、「すでに準備されていた技術」が、我々のリアリティを埋めてくれるものとして、実は十分機能するということが、このコロナ禍の元で遂に明確になり始めたんです。

それが何をもたらすのか。それが今日の結論。

そうリモート技術の浸透が導く、我々自身の「想像する力の拡張」です。

これまで僕らは技術の未熟故に、例えばネットの黎明期は、文字で「インター(相互間の空隙)」を埋めてきました。僕と同じ40代前後の人達は、あの「チャット時代」を覚えている人も多いと思います。過剰な程に文字で埋め尽くされた、あの狂気の空間。あの時代に戻りたいかと言われると、やっぱりもう戻りたくないんですよね。あんなにアツかったのに、なんだかあれはやはり「夢」みたいでした。どちらかというと「悪夢」に近い感じの。

そこからの技術の進展に従って、徐々に写真から動画へと至ってきたけど、今度は膨大なトラフィック故にリアルタイムでみんながつないで「飲み会」できるような状態になるには随分時間がかかりました。でも、実際にソフト的ハード的には数年前には実現可能だったリモートコミュニケーションは、僕らに埋め込まれていた根深い「ネットへの不信」のために、なかなか普及しなかった。実際、zoomもskypeも、これまで日本では全然普及しませんでしたよね。僕らは自分の名前や顔や声を、なんだか「リアルの最後の砦」みたいに思っていたのかもしれません。それを出しちゃったら終わり、みたいな。

でもコロナが暴き出したのは、人間の「リアリティ」を欲する気持ちは、恐ろしく強いということ。そして今や僕らは、「離れていても、意外といけるやん、意外とやれるやん」を知ってしまったんです。それが分かったら、後生大事に持っていた伝家の宝刀「名前、顔、声」を守ることに、あまり大きな意味を見いだせなくなってしまいます。

それどころか、僕らは今、制限された「リアル」のために、新しい「リアリティ」を楽しむ術をえつつあるんじゃないか。その先にあるのは、もともと「インターネット」が夢見ていた世界です。人と人が、距離のないネットの空間において、想像力を駆使して繋がれる世界。コロナウイルスという人類の危機が「その後の世界」にもたらすのは、つまり、人間の想像力の強制的な拡張という事態なんじゃないか。そんなふうに思ったんです。

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5)家にいましょう、再びどこかで会うために

もちろんいいことだけではないはずです。この技術が浸透して、これが「リアリティの補完」ではなく、本当に「リアル」と融合したとき、嫌なものまで一気に近寄ってくる可能性はある。物理的距離を一気にゼロに出来るのが、「リモート技術」の核心だから。でも最初に引用したはてなの匿名ダイアリーのように、実はこの技術は「距離をゼロに出来る技術」であるというよりは、「リアリティをコントロール出来る技術」と捉えた方がいいかもしれません。嫌なら画面を小さくしてしまえば、存在感は薄まるんです。そしてもし本当に嫌なら、切ってしまうことさえ出来る。未来の技術だったら、嫌な時にAIが会話を代替するような機能さえ出てくるかもしれません。

そして技術的な進歩以上に大事なことは、アフターコロナの世界においては、人の「想像力」が加速する可能性がある、という点。というより「想像力」を加速させることが許容される集団、企業、個人、社会、国家が発展する社会になるだろうということです。だって、zoomの向こうにいる女の子に当たる光を写真家が想像して、素敵な写真を撮った zoomグラフィーの記事をみれば、僕らの「想像力」は、容易に空間を超えることが出来る。無限の力を持っているんです。その力をうまく使えることが、このコロナウイルスの世界でちらりと垣間見えてしまった。

今まで「記号」によって目を曇らされていた僕たちは、画面の向こうの人間の存在を希薄に感じる世界に生きてきました。チャットでのいざこざ、匿名掲示板での誹謗中傷、twitterでの炎上。先日は「正義中毒」なんていうパワーワードまで出てきました。文字の向こうの人間が見えづらいからこそ、魔女狩りのような不謹慎狩りが捗るわけです。

この記事ではアフターコロナの世界を、今の状態がさらに自家中毒した世界として描き出していて、その危険性は確かにあると僕も思っています。この20年、そんな世界をずっと見てきましたから。

でも僕らは画面越しの人にもリアリティを感じられるし、そのリアリティを感じられる程度まで技術が後押ししてくれている状況に生きています。ほんの少しの想像力で、遠く離れた友人たちの存在を、本当にリアルに感じられる。zoom飲み会が、意外なほどに楽しいように。あるいは、ゲームの中の映像を「写真で撮りたい」と思ってしまえる。そんな世界がやってくる。ほら、なんだか楽しくないですか?アフターコロナの世界に持ち越せる光とは、つまり僕らのこういう力です。普通だったらリアルを奪われてしまったら消え去りそうな「つながり」をも画面越しに奪還できる縦横無尽な想像力。それが僕が見たい光なんです。

でもこんな能力って、僕らの生きる「本当のリアル」の価値を軽くしてしまうのでしょうか?もしかしたらそうかもしれません。まるで映画「マトリックス」の世界で「本当の現実なんて悲惨じゃねえか、仮想空間のほうが良い」とうそぶいて、人類を裏切ったサイファーのように、この力の先には、むしろ「仮想現実(ヴァーチャルリアリティ)」が「リアル」を駆逐する世界が待っているのかもしれません。コロナはそれを促進した、後世の歴史家はそう記すようになるかもしれません。

でもね、人間の脳ってよく出来ていると思ってるんです。刺激の受容方法が多様になればなるほど、世界を受け取る我々の感受性そのものが拡張していくんです。多分リモート化がより進んでいくアフターコロナの世界では、桜はもっと綺麗に見えるはずです。

だからこそ、僕らはそこに向けて準備をしなきゃいけない。何をしなきゃいけないのか、それは「今は家で過ごすこと」、これしかない。『コロナの時代の僕ら』において、パオロ・ジョルダーノが最後に書いたのことも、やはりそれでした。「家にいること」、そして生き残ること。たとえ経済的に大ダメージを負ったとしても、数ヶ月、あるいは1年、なんとか生き残る。家にいる。今僕らの「リアル」は、新型のウイルスという形で、かつて無いほど狡猾に、そして凶悪に僕らに牙をむいている。それとまともにやりあったら、勝てるわけがない。ぼくらもまた狡猾にこいつらを出し抜かなきゃいけないんです。そのためには家にいる。もしまだ皆さんのいる地域に外出制限が出てなかったら、時々太陽の光を浴びる。風の歌を聞いてみる。そして再び家にこもる、できるだけ一人でいる。

生き残った先の「新しい世界」で再び出会うために。

まだ出会ったことがない人たち、まだ一緒の仕事をしたことがない人たち、もしかしたら生涯の友になるような人たち、様々な「つながり」を僕は今、想像します。この暗くなり始めた夕刻の窓のそばで。

これが今、僕の見た「光」です。

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