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2000字かかる内容を500字にすることと、100字で済むことを1万字にすることは、同じくらい大切

今日はできるだけ短くいきます。タイトルがほとんど結論なので。

主に世の中では「2000字かかりそうな内容を500字で的確に伝える文章」というのが称賛されるように思います。冗長で論旨の混濁している文章というのは読みにくいし、今の様な忙しい時代にはあまりそぐわないからです。なので、大学でも昨今では一年生には「レポートの書き方」という形で、文章におけるエコノミクスの大事さを伝えるわけです。それはそれでとても大事なことです。僕もできたら学生の文章はすらっと読みたい(本音)

でも、そういう世の中だからこそ、そもそも100字で書けることを1万字にして書くということの意味や大事さも同時に担保されて欲しいと思うんです。

というのも、多くの場合、僕らの人生は思い出すことも難しい枝葉末節の集積によって成立していて、それらは思い出すことも難しいはずなのに、欠くべからざる小さな歯車として、現在時の自分を構成するパーツとして機能しています。僕らは毎日、そうとは考えずに何百何千もの「世界線」を選び取って、今のこの世界で「自分」という役割を引き受けて生きています。そんな選択をしているつもりもないし、実際にはそれらの選択は、「選択」という言葉に値しない様な無自覚の行動なんですが、でもやはり僕らの日常は、実際には細やかな選択によって成立しています。そしてその細部が重なっていくことで、奔流の様に激しい「流れ」である、僕らのアイデンティティというものが出来上がっていく。

つまりそれが「1万字」が費やされる意味です。

選択行為のほとんどは、殊更意味合いの感じられないものがほとんどです。例えば今日の夕食に、無色の素朴な竹の箸でご飯をたべるか、朱色の漆塗りのお箸でご飯を食べるか、その「選択」によって人生は何一つ変わらないし、それ自体にも大きな意味はないです。だから「経済的な文章」を書くときにはそれは削除されます。ただ、「夕ご飯を食べた」というふうに。

でも僕は今日は朱色の漆塗りのお箸を選んでご飯を食べました。それを選んだことには、何らかの意味があったはずなんです。誰にもわからない、僕にもわからない。でも、神様が見ればもしかしたらそこに意味がある様な何か。もちろん、その選択は何一つ人生において意味をなさない、明日には忘れてしまう様な選択なんですが、あるとき、その様な無数の選択肢の一つが、決定的な意味を持つことがあります。

僕にとっては、おそらく5年ほど前、何気なくTwitterに飛行機の写真をアップした時がそれでしょう。その選択には何一つ僕の意図はなく、単にその日とってきた写真が素敵だったので、お風呂に入る前に写真を載せておいただけでした。そしてお風呂から帰ってきたときには、もう人生は変わっていました。

もちろん、こんなふうに思い出せる「選択」ばかりではなく、当人にとってさえわからないままに人生を変えてしまった「選択」が、おそらくは無数にあるのでしょう。作家たちが意味を見出し、言葉を与え、100字で済むはずの内容に1万字を費やすのは、そのことを描こうとするからです。端的に言えば、彼らはその選択の持っていた奇跡の意味合いを描こうとする。

作家の様なすぐれた書き手の文章ではなくても、僕が読み手としても書き手としても大事にしておきたいのは、その消え去る運命だった選択、書かれなかった奇跡への共感とでも言える感覚です。それは突き詰めるならば、生きることと、愛すべき人たちへの敬意とも言い換えることができます。

僕が文学研究者として学んだ一番大事なことは、多分こういうことだったんだろうなあと、今更思ったので、今日は備忘録的に記しておきました。




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