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「学び」や「気づき」と言う時、一体何を「学び」「気づいて」いるのか

いつか書こう書こうと思ってたことを、ミャンマーで貰った風邪も収まったことだし、秋の夜長に書いてみようかなと。それは「学び」とか「気づき」という単語を発しているとき、実際には何を「学び」「気づいて」いるのかという問題。

なんでこんなこといい出したかと言うと、話は長いんですが、僕が大学の在籍時代に恩師に言われたことに端を発しています。20年ほどまえのある日のこと。とある小説のラストの意味がぜんぜんわからなくて、その恩師の先生に聞いたんですね。いくつかの解釈を提示してもらったあと、先生は「まあ、最終的には俺にもよくわからんけどな」と言われた。それが当時の僕には割と衝撃的だったんです。

だってその先生はその分野でも最も有名な先生の一人で、その先生にして「よくわからん」ということがあるんだと。で、その時僕はポロッと「先生にもわからない小説ってあるんですね」みたいなことを、半ば感嘆して言ったんです。その時の先生の返事が忘れられない。

「わからんことだらけやぞ、小説なんて。簡単にわかったら誰も苦労せえへん」

以後、僕はわりと「わからんこと」に拘泥して生きていく羽目になりました。

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あれからおよそ20年。今でもわからないことだらけで、それがまあ面白かったりするんですが、ちょっと前に大学の教員控室で、同じ大学の教員としては数少ない友人の一人と話題になったことがありました。それが「学び」と「気づき」という単語。その友人の教員と二人で、「最近ちょっと増えてねえ?」って話になったんです。増えてるというのは、例えばレポートやプレゼンで、最後の方に「学び」とか「気づき」で終わっていくような件数が増えているような印象がある。で、話の最後の方に二人でこう話してたんです。「学び」と「気づき」って、そんなに簡単にできないよねー、っていう。そしてそのことは、最初に書いた恩師の「わからんことばかり」の、ちょうどコインの裏表のような話だなあと。

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実際、最近学生さんのレポートやプレゼンを見ていると、けっこうな確率で最後の方に「学び」とか「気づき」が出てくる。例えばこんな感じ。「このプレゼンを通して、僕たちは戦争というものが単に政治や経済的な理由で起こるわけではないという"気づき"を得ました」とか、「貧困に関して、これまで知らなかった側面があるという"学び"を得ることができました」系のやつ。一見何か気づいたり学んでしているような感じだけど、なにかまるで「1+1は1+1です!」と言われているような、そんなもやもやした印象。

そのもやもやがなぜ起こるのか考えてみたのですが、多くの場合、彼らがいう「学び」や「気づき」は、実際にはほとんど学んでも気づいてもいない場合が多いからなんです(もちろん、まったくのゼロとは言いませんよ)。学びや気付きは、本来成長の「差分」が発生する行為のはずですが、実は議論を始める前から、すでに「学び」と「気づき」に落ち着けることが想定されているせいで、その「差分」が全然見えない。

勿論、僕が教えに行っている大学の学生達は、わりと偏差値の高い大学なので頭が良い。でも、頭が良い学生に特有の、ずる賢い効率性も持っている子が多い。「ある程度このくらいのことを言っておけば、単位は降ってくるだろう」という部分を、うまく撃ち抜ける能力とでも言いましょうか。課題が与えられたとき、プレゼンにせよレポートにせよ、これまで学んだいくつかの「道徳的に許容できる落ち着けどころ」へと行儀よく落とし込むプロセスが、極めて高効率化されているわけです。

勿論そのような高効率な問題処理能力は、社会においては課題解決に必要な能力の一つですが、ものすごく悪い言い方をすれば、それは単なる出来レースです。既知の結論にたどり着くだけの確認作業。

もちろん、そのような確認作業が不要だといいたいわけではありません。特に最先端の理系の学問になってくると、「その議論が成立することを他の人も確認すること」は、極めて大事な論証プロセスの一つになります。でも、そういったレベルの話をしているわけではなく、伸びしろいっぱいのはずの若い人たちの話です。その若い学生さんたちが、「学び」とか「気づき」を連発する。まるでコスパの高い必殺技を繰り出して、雑魚敵を一掃するような感じで。

でも冒頭の僕の恩師の話とつながってくるんですが、本当の「学び」や「気づき」って、そんなに簡単にやってくるものじゃないんですよね。むしろ「わからなさ」に拘泥し続けた先にしかやってこないもののように思うんです。

大体の「学び」「気づき」は、多くの場合痛みを伴います。何かを学んだり、何かに気づく時、たいていそれは手痛い失敗なり、呻くような失望なりが先行します。そしてその痛みなり失望を経て、これまで自分がやってきたこと、知っていたことは、実は大きな欠落があるんだ、通用しないんだと痛感する。それをバネにして、ようやく伸び上がることができる。「学び」や「気づき」は、常に「痛み」と同等であると僕は思っています。というより、「わからなさ」ことが「学び」の本質じゃないかなあと。

でも学生たちはしきりに「学んだ」「気づいた」といいます。そのものすごくイージーな「学び気づき症候群」は、本当の学びや気づきの機会をむしろ隠蔽してしまう。単なる付け焼き刃の知識を「学んだ」「気づいた」とうそぶくことによって、痛みも失望も後景に退いて、代わりに安い自己満足が意識の全面をうっすらと覆ってしまうからです(ちなみに、そうした安い自己満足こそが、「意識高い系」と「系」がついて呼ばれる人たちの持つ意識の「高さ」の正体です)。それは彼らのような本来高い知性を持っている学生たちにとっては、何よりも危険な罠なんだけどな、、、と思いつつ、なかなかそのことを今日まで言葉にできずに来ました。

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話は急に変わりますが、シャーロック・ホームズの「ボヘミアの醜聞」という短編の冒頭で、ホームズはワトソンに「この家の階段は何段あるか、君は知ってるかね?」と、例の無茶苦茶な問いかけをします。探偵の知性を輝かせるための噛ませ犬役のワトソンは、いつもこの手のマッチポンプに素直に反応して、「いや、知らないよ」と答えちゃうんです。なんとも憎めない良いやつですが、いい面の皮だなと、読むたびに思います。ま、それは置いといて、その後ホームズはこんなこと言うんですね。「17段だよ、ワトソン君。君は物事をseeしているだけなんだ。大事なのはobserveすることだよ」的な。

そう。物事を「見る(see)」と「観る(observe)」の違い。この辺りが大事なんですよね。

ホームズが何度もくどくど言うのは、知性の根源にあるのは「観る」こと。つまり「よく見る」ということなんです。単に見ているだけの目線との差分を作り出すのは、対象をよく「観る」という習慣。それが日々積み重なっていくことで、世界に対する膨大な見識の差となって現れる。それこそが「知性」なんだと。

ホームズはマッチポンプ型探偵としては最強なので、物事を解決まで強引に引っ張っていきますが、大学という場は、そのような「解決」を出す場所ではない。でもホームズが言う「観る」ことの大事さってのは、これは一緒です。簡単に「学べる」ような解答なんて存在しないんです。むしろ「問題がどこにあるのかを観察する」ことが一番重要。しかも一回こっきりではなく、生涯に渡って「観つづける」こと。恩師の言葉を借りるなら「わからん」に拘泥すること。そして大学とは本来そのような場であるべきだと思うんですよね。

そもそも、大学において僕ら教員が学生にわざわざレポートなりプレゼンなりさせる事柄って、「簡単に"学び"を得られる結論などない題材」を選んでる場合が多い。戦争も貧困も、暴力も差別も、SNSもインターネットも、全てこれら世界中の知性がよってたかってもまったく撲滅できない問題だらけ。しかもその道の権威でさえ、相互に矛盾する意見を表明している。そんな価値観の混沌の中で「学び」もへったくれもあったもんじゃない。であれば、20歳そこそこの学生たちに、目の醒めるような切れ味鋭い解決策なんてのは全く期待していない。期待しているのは、その相互矛盾を含みこんだ問題をできるだけしっかり細部を観察して、吟味してもらうっていう、それだけなんです。

でも、小中高と、「とりあえず答えを覚えなきゃいけない」という妙な教育を徹底されている日本においては、「問題をひたすら観る」というような態度は、あまり醸成されない。その結果、とりあえずテンプレの「学び」と「気づき」で議論を収束させるような学生さんが増えちゃったのかもしれないなあと、冒頭に出てきた友人とこの前そんな話をしてました。

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でも、「観る」というのは実際にはすごく難しいです。ただ「見る」のとはわけが違う。「見る」だけだったら気づかなかった自己の歪みまでも、認識しなくてはいけない。自分自身さえカッコに入れて対象化してしまうほどの視野が、「観る」ことを通じて醸成される。それは痛みの伴う行為です。でもその「痛み」なしには、知性は醸成されないんですよね。

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20代以降の僕の思考の基盤を作ってくれた恩師が、今年退職されるんですよね。時々先生の新しい論文を読むと、あの頃言われてた「わからんこと」に、先生が未だに拘泥されていることがよく分かります。すごく粘り腰の議論が展開されているんです。そして読んでいると、学生時代によく言われたことを思い出します。

「お前、ほんまに分かってるんか?」

修論何度もrejectされたし、在学期間中は先生の鋭い知性があまりに怖くて、研究室に入る時震えることもあったけど、そういう経験できてよかったなあと40超えてからよく思います。

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