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Look and See:「データ」に振り回されずに自分の目で見る

先日、院生と共に、秋からお世話になる実習校に挨拶訪問したときのこと。

途中の乗換駅のあたりまでは十分晴れていたのだが、学校の最寄り駅で降りたとき、空は暗く、細かい雨がパサパサと降っていた。学校まではそこそこ距離がある。

その院生は傘を持っていなかったので(私は折りたたみ傘を鞄に入れていた)、彼女は「傘買おうかな…」と言って、近くのコンビニに入った。そして、彼女、いつ頃雨が止みそうか、スマホアプリを開いて雨雲レーダーを見てみたのだが…。

なんと、スマホの雨雲レーダー上は、周辺一帯、降雨の表示がない(水色や青色のブロックが一切出ていない)。「しばらく雨は降りません」となっている。間違いなく目の前では雨が降っているのに、狐につままれた気分。
「あれ、もしかしたら本当は降ってない!?」「目の前の水の筋やこの濡れた肌は実は幻!?」と、彼女と私は、現実からのちょっとした浮遊感に包まれる。

とはいえ、すぐに彼女も私も正気に戻って、「雨が降っている」という現実を見据えて対処を講じて、実習校に向かった(結局傘は買わず、私の折りたたみ傘を貸した)。

さて、いったい何の話かというと…。

実はこれは、「AI」やら「データ駆動型教育」やらがまた新たな流行り言葉になりつつある今後の教育界において、まさに起こりうる問題なのではないか。

AIやビッグデータなどによって導き出された現状の診断や今後への指針と、その場にいる人間の五感や直観、実践知によって得られた見立てとが異なる場合に、どう判断するのか。

今回のように、「雨雲レーダー」と、目の前で降っている雨との食い違いという場合には、おそらく誰でも、目の前の雨のほうを信じるだろう。
けれども、これが、「データ」が示した生徒の学習状況と、教師による見立てとの食い違いの場合にはどうだろうか。
「データ」のほうが信頼性と説得力があるから自分の見立てには自信がないから、あるいは、「データ」に従っておけば自分の責任を問われないですむからといった理由で、「データ」を優先することがきっと出てくるだろう。

もちろん、「データ」を活用することが悪いわけではない
何を隠そう、私は、天気予報アプリの「雨雲レーダー」の熱烈愛用者だ(あまりにしょっちゅう見ているので、妻からは呆れられている)。今回のように「雨雲レーダー」が露骨に実際の天気と食い違うことのほうが稀であって、普段は、「○時頃から雨が降りそうだから今のうちに買い物に行っておこう」など、自分の行動を決めるうえでとても頼りにしている。
同様に、教育活動においても、「データ」はきっと役に立つ。教師個人が捉えられるもの、記憶しておけるものには限りがある。また、しばしば教師の見方には偏りがあったり、思い込みが生じたりもする。そうした点で、AIやビッグデータは、教師には見えないものを映し出したり、別の見方を提示したりすることができるだろう。
けれども、それはあくまでも、教師が判断するうえでの手がかりとして用いられるべきものだ。コンピュータが導き出したものが絶対視され、その「遵守」が教師に求められるようになったら、教師は、目の前の子どもをしっかり見てその声に耳を傾けるという、教育の営みの中核から疎外され、子どもを見る目(鑑識眼)を磨く努力を放棄することになっていくだろう。

どうか、目の前で雨が降っているのに「データ」が示す「降雨なし」のほうを信じるような愚を犯すことになりませんように。

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