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学校でのフルオンライン授業:ビデオを映しっぱなしにする必要はない

昨日の投稿(↓)は、学校で取り組み始められている、対面組・オンライン組の両方がいるハイブリッド授業を念頭に置いたものだったが、今回は、オンラインオンリー、しかも、zoomなどビデオ通話システムを使って行っているものに関して書いておく。

機材の面でも通信環境の面でも不十分な学校が多いなかで、条件に恵まれて、夏休み明けから、ビデオ通話システムを活用した全面オンラインでの授業を実施している学校が一部ある。つまり、教師が画面越しに、自宅にいる子どもたちに対して遠隔授業を行うというものだ。

その際、声を大にして言っておきたいことがある。
それは、その授業中、別に、45分なり50分なりの間、ずっと、教師がビデオ通話をつなぎっぱなしである必要はない、ということだ。
いや、何かの時の連絡用に、接続そのものは維持しておいてよいのだが、教師がしゃべり続ける必要性も、教師がビデオオンにし続ける必要性も、ない。
だいたい、(いくら子どもの側で教師が映っているウィンドウを小さくしたり後ろにまわしたりしていたとしても)教師の姿がずっと画面上に映り続けていて、それを気にしながら学習を進めなければならないなんて、イヤではないか。1日に5コマも6コマもオンライン授業があるのだとすれば、そんな状態で毎日半日を過ごさなければならないなんて、しんどすぎる。

私自身、全面オンラインで大学の授業をするとき、
「では今からみなさん資料を読んで、それぞれ作業をしてくださいね。○時○分から再開します。では」
のように作業内容と再開時刻をアナウンスして、ビデオをオフにする時間をとっていることが多い。
学生たちにも、その間、ビデオオフにするのみならず、トイレに行こうが飲み物を飲もうが寝そべりながら作業をしようが、(タスクさえちゃんとやってくれるなら)自由に取り組んでもらってOKという旨を伝えている。
あまり大きな声では言えないが、私自身、その間ムシャムシャ何かを食べていることもある。

これを強調するのは、一つには、先に述べたように、他者の目線にわずらわされないなかで学習に臨めるように、つまり、本来的には学習というのは自分で進めるものなのだから、自分が課題と向き合うことに集中してもらいたいという思いがあるからだ。

それともう一つには、自分と端末の画面だけのせいぜい1メートルといった極小の範囲内に押し込められるのではなく、もっと広い空間を感じて学習に臨んでほしいと願うためでもある。
実際の教室の中で学習しているとき、視覚も聴覚もそれなりに広い範囲に向けられているし(黒板を見ているにせよ窓の外を眺めるにせよ友達の発言を聞くにせよ)、しばしば触覚や嗅覚だって働いている。
けれども、端末の画面に向かっているときには、そして特に、画面上に映像が映っているときには、そこにばかり目も耳も集中してしまう。学ぶとき、本来なら全方位的に広がるはずの感覚が、ごく狭い範囲のみに絞られてしまう。これは、かなり不自然なことだ(「本を読んでいるときはどうなんだ。それだって狭い範囲じゃないか」と言われそうだが、私は、むしろ、本を読んでいるときには、感覚が仮想的に全方位的に広がっていると捉えている。そのあたりの身体感覚を伝えるのは難しいのだが…)。

そのため、ビデオをオフにして、端末の画面以外のところ(子どもの自宅にだって、空間の広がりはある)にも感覚を向けやすいようにすることが必要だ。まあ、そもそも資料が電子ファイルで与えられていて、各自の作業も画面上で行うという場合もあるだろうが、それでも、他者とのつながりが映像として画面上に出ているかどうかの違いは大きい。さらにいえば、いったん完全に端末から離れて、紙の本(紙の教科書でも)を手に取ったり紙と鉛筆(シャーペン)で計算式を書いたり手を動かして何かを組み立てたりといった作業をする時間があるのが望ましい。

このあたりの議論は、今年出た拙稿「オンライン授業・対面授業をめぐる議論で見落とされているもの:教育方法学の視点からの検討」(『年報 体育社会学』第2号所収)において指摘した、学習の自律性、そして身体性の話にかかわってくる部分でもある。
まあそこを掘りさげるのは今回はひとまず措いておいて、あらためて、強調しておこう。
たとえ小中高でビデオ通話方式でのフルオンラインの授業をやっている場合でも、ずっとビデオをつなげっぱなしにしておく必要なんてない、と。

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