見出し画像

教育とアイデンティティ

先月大阪のあべのハルカスで一般向けの演劇的手法の講座を開いたときに、小2の女の子が母親と一緒に来ていたのだが、その子は、私が声をかけてもほとんどしゃべらず、「おれはかまきり」(工藤直子『のはらうた』より)の詩を読むときに誘っても首を横に振っていた。
おとなしい子なのかなーと思っていたが、後で主宰の先生経由で聞いたところでは、「あのときは、『だぜ』って言うのが恥ずかしかったから(読めなかった)」と言っていたらしい。
後日、家で別の本でまたこの詩が出てきたとき、最初は、「だぜ」を省いて読んだり小さな声で読んだりしていたけれど、そのうちに本文通りにハッキリ読んで、声の調子を変えたりして楽しんでいたとのこと(母・談)。
面白いなあ。そこに抵抗があったのか。

ヨーロッパ在住の日本語教師のオンライン研修会に今度呼ばれていて、先日その打ち合わせをしていたのだが、そこの先生方がしきりに、「理論的な裏付けを教えてほしい」「(ドラマなどの手法に関して)有意義なことだと説明するための理屈を知りたい」といったことをおっしゃっていた。
なんでかなー、授業で活用するぶんには、自分の身体を通して意義を実感してもらうのが手っ取り早いのに、とも思っていたのだが、先週末の教育方法学会での宮崎先生の発表から学んだところによると、この背景には、そうした立場の先生方の研究上の専門性がヨーロッパの高等教育機関において認められていない、という事情があるらしい。
なるほどなあ。だからそこが切実な関心事となるのか。

教育は、本質的に、アイデンティティと切り離せない営みだ。学ぶ側にとっても教える側にとっても。
この事実が、近年の教育施策においては、あまりにも見過ごされている。
(言葉のうえでは「個別」とか言うのにね。そこでの「個」は、アイデンティティを表す「個」にあらず。)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?