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子どもがもつ力に圧倒される 〜第32回吃音親子サマーキャンプに参加して

第32回吃音親子サマーキャンプ(主催:日本吃音臨床研究会)を終えた。

どもる子どもと親が、琵琶湖畔にある荒神山自然の家に集まり、2泊3日を共に過ごす。
どもる大人(成人吃音者)ことばの教室の教師言語聴覚士などもそこにスタッフとして加わる。
8月18日(金)〜20日(日)に開かれた今回、2000-2001年のコロナ禍による休止を挟んだ影響か、子ども&親のリピーター参加が減っていたが(初参加者率増)、それでも参加者は全体で80名ほど。大阪・兵庫を中心に、三重やら千葉やら神奈川やら鹿児島やら全国から集まる。

学生時代から、かれこれ連続22回目の参加になる。
なぜ私はこうして参加し続けているのか

今でこそ竹内敏晴さんの後を継いで事前合宿でのスタッフ向け劇の指導を担当するようになってはいるが、元々はそうではないのだし、別に、演劇教育の専門家として参加しているわけではない。もちろん、吃音の専門家でもない。また、ボランティアとして他人の役に立つために、というのもちょっと違う。
むしろ、「専門家」でも「ボランティア」でもなく、何も背負わない者としてその場に居て、それでいてかつ(あるいは、だからこそ)、子どもがもつ力に圧倒される人間ってすごいなあとしみじみ思える、そんな経験を毎年できるから、私は参加し続けているのだと思う。

1日目の話し合いでは(吃音の調子もあってか)一言もしゃべらなかった高校生の子が、2日目の話し合いでは、自分が就きたい仕事のこと、オープンキャンパスに行って「どもっててもその仕事でやっていけるか」尋ねたときのこと、なぜその仕事を目指すようになったのかといったことを、時々言葉が出なくなりながらも、話す。周りのメンバーは、それにじっと耳を傾ける。ごく自然に、けれども極めて濃密に、話すことと聴くこととが行われる。

2日目朝の作文で、ことばの教室のこととキャンプのことを書いてきた小学生。
どちらもすごく楽しい、特にことばの教室は、学校の中で一番楽しい時間だという。
ただし、その楽しさは、椅子取りゲームとか、いっぱい「ゲームができるから」。
「じゃあキャンプの楽しさは?」と尋ねてみると、その子いわく、
「キャンプの話し合いでは、吃音でイヤだったこととか、みんなの、吃音への思いを聞ける」。
「相手の気持ちを分かれて、うれしい」と。
子ども自身が、吃音と正面から向き合うこと仲間とつながることの価値を認識している。

担任の先生への怒りを作文にぶつけた小学生もいる。
「ゆっくり話して」と言ってくる先生に対し、「ゆっくり言おうとどもるもんはどもるんだから、そういう問題じゃない」。「知らないように知ってるように言うな」と。
そうやって言語化できることの強さ

私自身、3日間というほんのわずかな間に、子どもへの見方をどんどん塗り替えられる
話し合いのときには引き気味で、あまり自分のことをしゃべらなかった子が、劇の練習のときには自分なりの工夫なり表現なりをバンバン入れて、周りの笑いと喝采をかっさらっていったりとかも。

こんなふうに、子どもってすごいなあと思わされることの連続だ。
それは、普段自分が背負っているものを降ろして、ただただ、人がもつ力の前に謙虚になれるということでもある。

吃音のキャンプは他の場所でも行われるようになったけれども、こうした関係性をもてるのはなかなかないという。他だと、ことばの教室の教師なりの専門家が準備してプログラムを提供する、という形になりがちだし、成人吃音者が来る(招く)場合でも、「吃音の当事者や先輩の話を聞く」といったプログラムの一部に組み込まれてしまいがちだそう。
それはそれでよく分かる。「教師」なり「専門家」なり、というのは、「ちゃんと自分が役に立たないと。何かやってあげないと」と思ってしまうものだから。

一方、この吃音親子サマーキャンプは、「専門家」が何かを提供するという図式ではない(ことばの教室の先生も参加してるけれど、むしろ、自分が学びにきている気分だろう)。
もちろん、支柱としての伊藤伸二さんの存在は大きいが、キャンプそのものに関しては、どもる子どもも親も(時には子どもの兄弟も)スタッフも一緒になって場をつくっていく。
劇の練習のときのリードとか話し合いの進行&記録とか食事の準備とかシーツの管理とか、スタッフが担う役割はいろいろあるものの、スタッフみんなが同じように担うわけではないし(臨機応変に入れ替わりもするし)、親が担うものもあるし、名前がつくような「役割」ではないけれど、キャンプ卒業生でもある若手スタッフらがいきいきと人前でしゃべったり子どもとかかわったりしてさまざまなタイプの「わが子の将来像」を示すといった、私が決してできない類の「役割」もある。そんなふうに、参加者同士が固定的な関係に陥ることなく、一緒につくる

だからこそ、子どものすごさに圧倒されることが可能になるのだろう。
自分の背負っているものを降ろすからこそ、純粋に、人のすごさを楽しめるのだろう。
そうした時間をもてるのは私にとって貴重で有難いものだし、それは他の参加者にとってもそうなのかもしれないと、思う。

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