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「研究倫理」を形式的なものに終わらせないために ~田代志門『みんなの研究倫理入門』

以前学内で研究倫理委員会にいたことがあり、そのときに研究倫理関連の書籍をいくつか読んだが、勉強にはなったものの、「面白い!」「目からウロコ!」というものはなかった。むしろ、何かにつけて出てくる「ヘルシンキ宣言」とか、医療の話を教育研究にもそのまま適用されてもなあと、正直食傷気味だった。

が、今回初めて、抜群に面白いと思える研究倫理の書籍に出会った。

田代 志門『みんなの研究倫理入門 臨床研究になぜこんな面倒な手続きが必要なのか』医学書院、2020年

3人の登場人物による対話とエピソードで進むスタイルももちろんなのだが、内容が刺激的で、今まで抱いてきた疑問が解消したり、考えるための枠組みを得られたりといった場面が随所にあった。

本書で最初に述べられるのは、「診療」(「実践」)と「研究」の区別。つまり、practiceとresearchの区別
そして、倫理審査の要不要に関して、「『研究』であれば必要、『診療の一環』であれば不要」というのが「一番基本的な考え方」なのだとする(p.13)。

これ自体、私には衝撃的だった。
教育現場(学校であれ大学であれ)で行われる実践研究に対してしばしば向けられる、「人を対象としているから、研究倫理審査が必要」みたいな発想に、これまで私は違和感を抱いてきた。日々行っている教育実践をベースに分析したり意味付けたりするタイプの研究に、なんで、血を採ったり新たな薬を試したりする医療の研究と同じような手続きでの倫理審査が求められなきゃならないの?と。
なんだ、ちゃんと医療のほうでも、人を相手にしていたらなんでもかんでも倫理審査、ではなくて、こうした区別について議論がなされてきたんだなと、腑に落ちた。

また、ではなぜ「研究」を「診療」と区別しなければならないかについても、本書の説明は明快だ。「診療」の場合、「目的はあくまでも患者自身の問題の解決」(p.25)であるのに対し、「研究」では、研究目的をもっているのは研究者=医師であり、患者が、目的達成のための「手段」として扱われる恐れがあるから(p.27)。
なるほどなあ。
もちろん、現実の事例は必ずしも明快に切り分けられないわけだが、けれども、こうした枠組みをもっておくことで、問題について考えやすくなる。

教育のほうでは、こうした原理的なことに立ち返らずに、「◯◯に投稿するためには学内の倫理審査を通してなきゃいけない」みたいな発想で、「データの保管は鍵のかかるロッカーでうんぬん」みたいに形式的な記述だけ整えて倫理審査を「パス」させるのが横行している。

…と思いきや、実は似たような状況は、医療分野でも生じているようだ。
倫理審査委員会に関する記述。

委員会が儀礼化してしまい、そもそも本来のミッションとはかけ離れた意思決定の場になってしまう

p.182

本当に立場が異なる人たちが膝を突き合わせて考えなければいけない問題だけを議論する場になるようにデザインする必要がある」はずなのに、「日本人はその辺りの切り分けが苦手

p.182

よく分かる。
形式的に申請し形式的に審査されるのが当たり前になってしまって、本当に考えなければならない問題が埋もれたり、研究倫理をきちんとするとはそんなふうに形を整えることだという誤認が生まれてしまったりする。
筆者が思い描く倫理審査委員会の役割、

社会の利益と個人の不利益という異なる単位を比較するためにいろいろな立場の人が『共に考える』

pp.179-180

という点もあわせて、とても納得がいった。

本書は他にも、

  • インフォームド・コンセントの問題(もはや単純な「説明ー同意」モデルではないんですね!)

  • 研究対象者への謝金支払いの問題(「付随的利益」と「リスク」とはどんな関係であるべきか)

  • 「社会的利益」をどう見るかの問題(研究対象者へのリスクや負担がほとんどない研究に対しても「社会的利益」を求めて、それと天秤にかける必要があるか)

など、思考を刺激される点が多かった。
また、医療分野でもこれだけ議論が蓄積されてきたんだと知ることで、あらためて、では教育分野の場合には違いがあるのか、教育分野ではどんな発想をもつ必要があるかと、考えることができた。

そもそも、本書でいう「研究」(「診療」=「実践」と区別されるものとしての「研究」)は、おそらく、教育分野でイメージされてきた「研究」とはズレがある。
「研究」を、

仮説を検証し、想定された結論を導き、そこから一般化可能な知識(中略)を発展させるないしはそれに貢献するような活動

p.50

としているのもそう。教育研究の場合、少なくとも、医学と同じような意味での「一般化可能な知識」がおそらく得られるわけではない(なお、『流行に踊る日本の教育』所収の拙稿で批判したように、一部の実践研究において、仮説検証型の劣化版真似事は出てきているのだが)。
また、

研究計画を患者側の個々の事情に応じてどんどん変えていくと、医療としては良いかもしれないけれど、研究としては科学的な妥当性が失われてしまう

p.105

というのも、教育の実践研究で同じことが言えるのか?というのは問うべきだろう(なお、「デザインベース研究」など、柔軟な変更を認める立場もある)。

いずれにせよ、医療のほうでは「研究」が、「診察」=「実践」と区別して捉えられているし、そこでいう「研究」は、教育でいう(特に教育実践を対象とした)「研究」とは距離がある。
にもかかわらず、医療を中心にして発展させられてきた「研究倫理」の審査の手続きやら何やらが、きちんと吟味がなされないままに、教育分野にもスライドして用いられている。医療のほうでは一定積み重ねられてきた議論もかえりみられないままに。

なお筆者は、倫理の専門家の役割を(筆者は医師ではなく、社会学畑の人)、

実際に判断を下すというより、研究の現場に近い人びとが生産的な議論ができるよう「地ならし」をする

p.144

と述べている。
このイメージもよく分かる。
私の場合、「研究倫理」ではなく別のテーマ(例えば、「実践研究」をどう捉えどのように行うかとか)にはなるわけだが、「生産的な議論ができるよう『地ならし』」する役割、私もしていきたいなと思った。

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