見出し画像

教師教育の取り組みをどう描くか ~脇本健弘・町支大祐編『教師が学びあう学校づくり』を読む~

脇本健弘・町支大祐編『教師が学びあう学校づくり』第一法規、2021年

若手およびミドルの教師をいかにして育てるか。

①一対一でのメンタリングによる若手育成
②校内での組織的な取り組みを通しての若手育成
③校内や教委でのミドルリーダー育成

この3つの層に分けて、それぞれにつき、参考になる理論と実践事例を挙げた本。執筆者・関係者らがざっくばらんに話し合う座談会も収録されている。
実践事例を書いているのは、編者らが教職大学院で指導してきた現職院生や、かかわってきた学校現場・教育委員会の人たち(11本中4本が、現職院生の教職大学院での研究成果をもとにしたもの)。
私自身、教職大学院での現職院生の研究や学校・教委での研修とのかかわりで起きていることを発信していくべき立場にあるにもかかわらず、それが十分にできていない。そのため、それを率先してかつ着実に行っている脇本さん&町支さんに、まずは最大限の敬意を払いたい。

さて、中身に関して。
本書の実践事例では、メンターとメンティーとの間のやりとり協働で指導案作成を行うときの会話などが盛り込まれている。教師の学びの場での出来事に関してこうした具体的なやりとりを載せている本は貴重だ。
また、座談会において、「内省させるよりも言っちゃった方が早いんじゃないかと思いましたね。というか言ってしまってましたね。教職大学院で『メンティにやってはいけない』と教わったことを、やってしまった感じですね」(p.64)みたいに当事者の率直な声が出てくるのも大事なことだ。

取り組みそのものも興味深い。
例えば、事前検討会に先立って授業者が指導案を作ってくることを求めない「学習指導案の協働作成」(事例2)、事後検討会については自然発生的なものにとどめ、授業前に授業者・他の教師・外部講師らが一緒に授業を考えることに重きを置いた「事前検討重視型授業研究」(事例5)。
これらは、授業研究の形式化・形骸化を打破しようとする取り組みの一形態であり、協同による創発や即興性を重んじる点で、私が「学びの空間研究会」や学校での「対話型模擬授業検討会」の活用で試みてきたこととも一部重なっている。

一方、実践研究としての叙述という面から見ると、一部に不満が残る。
例えば、上に挙げたところでいうと、「学習指導案の協働作成」に関して、それが今まで一般的に行われてこなかった理由として、「指導案は自分で作ってくる」のが自明視されていたからと述べられている(p.41)が、授業者が指導案をきちんと自前で作ってくることに価値を置いていた側には、それ相応の理由があるはずだ。何のために・どのように指導案の作成を行うものとこれまで考えられてきたのか、それに対して何を投げ掛けたいのかを押さえないと、せっかくの提起も、「そういうやり方もあるよね」で終わってしまいかねない。
同様に、「事前検討重視型授業研究」に関しても、授業研究の歴史をたどるならば、むしろ、従来は事前の指導案作成等にばかり力が注ぎ込まれていたのが、稲垣忠彦氏や佐藤学氏の「授業カンファレンス」などの提起により、授業で起きた出来事から学び合う事後検討会を重視する方向へと転換が図られたのだ。これをどう見るか、「事前検討重視型」は、佐藤らが批判したような計画偏重型の事前検と同じなのか、違うとしたら何が違うのか。このあたりを掘りさげておかないと、ここで挑もうとしているものが何か、正しく受け取られないように思う。
(なお、「事前検討から継続的に協働的スタンスで関わってもらえる講師の選定が重要な課題」p.114ともあるが、たしかに、教育心理学者などが授業研究に関わる場合には研究授業&事後検以降が中心だったかもしれないが、少なくとも、各教科の教科教育学の専門家が関わる場合には、事前段階から授業づくりに関わるほうがこれまでも一般的だったはずだ。もちろんそこにもいろいろな問題があったわけだが、それも含めて、これをどう見るかを述べておかないと、「協働的スタンス」の意味も明確にならないように思う。)

…と注文を付けているが、先にも述べたとおり、これはまさにブーメランで、私自身、現職院生の課題研究指導を行ううえで、「取り組みやりましたー!」の報告で終わらないもの、文脈に位置付けてその取り組みの意義を浮かび上がらせるものになるようできているかが問われる。だからこれは、自戒を込めて、の話だ。
(なお、この点では、「学習共同体」論の枠組みで、高校におけるその具体的なありようを描くことに徹した渡邉久暢先生の事例8は、非常に読みやすく、示唆的だった。)

また、個々の取り組みの興味深さの一方で、書籍を通して読む際に、読みにくさを感じる部分もあった。
それは、どこで行われたどんな取り組みを、誰がどんな立場から記述しているのか、の分かりにくさであるように思う。
基本的に、本書に収められた事例は、客観的な叙述スタイル、書き手が透明な存在として出来事を描くようなスタイルで書かれている。けれども、実際には、書き手はある立場からある角度でもって取り組みを描いている(自身が当事者として取り組みを担っている場合もある)。しかも、そもそも教師の学びに関する取り組みは、授業実践など子どもの学びの場合以上に、状況も担い手も多様だ。だから、誰がどんな立場から記述しているのかが、より気にかかる。本書を読みながら、何度も、巻末の執筆者一覧を見て、「この人何者? どんなかかわりをしたのかな?」と考えることになった。
おそらくこれは、本書の課題というより、当事者(と一口に言っても立場はさまざま)が教師教育の取り組みをどのように描いていくかという、より大きな課題だろう。従来の客観的な叙述スタイルでもない、また、「アクション・リサーチ」と簡単に一括りにできるものでもない、なんらかのスタイルを、これから私たちは見出していく必要があるように思う。

いずれにせよ、私自身、勉強になり、刺激にもなる本だった。
今後、教職大学院で教師の学びに関心をもって研究をしている現職院生らには「必ず読むべし」と薦めたい本。

最後の座談会での町支さんの発言。
若手教師らの間で「既存の教員に対する『これでいいのか』という感覚がすごく高まっている」「ロールモデルをなかなか見つけづらい」(p.217)というくだり。
「自分はそういう先生になりたいわけじゃないんだけどな、と思っている若手はいっぱいいるんじゃないかな」「これまでの教員の再生産のような養成では難しい」(pp.217-8)とも。
この感覚、すごくよく分かる。学校そのものが、制度疲労を起こし、先を見通しにくくなっている。
それで、若手教師らの間で、SNSなどでさかんに発信する教師がやたらとキラキラして見えて、そこにワッと群がるみたいな現象も一部で生じている(教師のSNS活用自体を否定しているわけではないので、念のため)。

変革期におけるこの状況をどう乗り越えていくか。
座談会の席上、中原淳氏は、正規・非正規の混在、管理職の数年での異動、人手不足、顧客を選べないB to Cといった、今の学校に特有の人材育成上の困難を見出す。「ぽんって現場に投げ込めば、そこそこ人は育った」(p.225)時代の終わり。
制度疲労を起こしているのは教員養成や教員研修を担う大学のほうも同じなので、自分にできることをあらためて考えていかないと(そして脇本さんや町支さんのようにちゃんと本にしないと)と思う。

せっかくなのであらためて宣伝。リフレクションを通した教師(を目指す人)の学び方については、こちらの拙著(↓)も役立つと思うので、まだの方は是非! 一人で読むもよし、誰かと一緒に(登場人物の役になって)読み合わせをして考えるもよし、の本です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?