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つながりによって増幅する学び ~脇坂圭悟『主権者を育てる社会科の授業』

脇坂圭悟・佐藤学『主権者を育てる社会科の授業』人言洞、2023年

茅ヶ崎市立浜之郷小学校の研究主任を務めてこられた脇坂圭悟さんによる、社会科を中心とした実践記録。なお、脇坂さんは、その後、同じ茅ヶ崎市内の別の小学校に異動され、今年度は、本学教職大学院の総合教育実践プログラムに現職院生として在籍している。

圧巻の実践記録だ。

最近の私は、教育界のバズワードやら行政施策を批判的に検討しながら学校現場のプラスにもなるようにと、こまごまと物を述べたり書いたりしている。けれども、そもそも自分が教育学/教育方法学の世界に入ったのは、こうした「学ぶってすごいな」「それを生み出す教師の仕事って奥深いな」と思わされるような骨太の実践の数々に出会って、それを大事にしていきたいなと思ったからだ。本書は、そんな自分の原点を思い起こさせてくれる本だった。

脇坂さんの社会科の授業。
5年生で地域のことを学ぶ際、開発を担って地域に生活面でも医療面でも利便性をもたらした高速道路の関係者と、環境保護を唱える農家の人との両方の生身の声に触れさせて、開発のあり方について子どもが考えられるようにする。また、同じく5年生で自動車工業について学ぶときには、海外移転(産業の空洞化)の問題を取り上げ、保護者の協力も得ながら、地元の工場で働く人海外生産の業務にたずさわる人の両方に触れられるようにする。
脇坂実践のすごさの一つがこうした教材づくりの深さにあるのは、間違いない(直接教室に招くことができない場合でも、自分で全国をまわって直接話を聞いて、「○年○組のみなさん、こんにちは」から始まるビデオメッセージを撮ってくる)。
本書を読みながら、読者はきっと、脇坂さんが投げかける問い、繰り出す資料に対して、子どもたちと一緒に真剣に頭を悩ませることになるだろう。

が、脇坂実践のすごさはこれにとどまらない。むしろ、子どもが授業のなかでいろいろと頭を働かせる際に、これまでの学びとつなげていく、それによって学びが倍々ゲーム式に増大する、そうした増幅する学びと、それを生み出す教師の受け止めのありようこそが、中核にある。

子どもが、「前に勉強した○○に…」と、これまでの学びとつなげて話す。自分ではそのつながりを明晰に述べられなら場合でも、教室の仲間たちは同じように学びを積み重ねてきているので、「それって○○のこと?」と互いにカバーし合う。そうやって、自分たちの学びをより豊かにしていく。本書にはそんな姿が繰り返し登場する。

こうした幾何級数的な学びの増大は、パッケージを次々に「効率的に」学んで学習内容を習得していくという、最近の流行りの(?)教育観(学習への算術級数的な捉え)では実現しえないものだ。

学内でちょうど脇坂さんと会ったときに、いくつか尋ねたかったことを聞いてみた。
一つは、こうした教材開発をどのようにして行うようになったのかということ、もう一つは、子どもの思考の流れを見て資料の提示の仕方を変えるとなると、使わずじまいの資料も出てくるだろうが、その扱いは、ということだ。

一つ目、独自取材で資料教材を作成して機を見て使うやり方に関して。
脇坂さんは、学生時代に某新聞社でアルバイトをしていたらしいのだが、その経験が役立っているとのこと。取材の仕方といったことにとどまらず、シリーズもの(連載もの)の場合に、どのように各回の記事を構成するか、つまり、最後に取材した内容が紙面上でも最後にくるわけじゃないこととか、読者の反応を見て連載の第○回で予定していた内容を別の回に動かしたりすることとかを、学んだらしい。それが、子どもに資料を提示するときのやり方にも活かされているとのこと。

二つ目、用意しておいた資料の取捨選択に関して。
やはりそのように使わずじまいになる資料(「捨て資料」)はあるらしいし、その判断は迷うらしい。なかでも、ある選択肢をめぐって子どもたちがさんざん議論したあとで、「実際には○○さんはどうしたのか」を提示するかどうかは特に迷うとのこと。
資料を出す・出さない、どこで出すかの判断を脇坂さんがどう行なっているのか。専門職としての教師の思考、特にPCK(Pedagogical Content Knowledge:教えることを前提とした教科内容に関する知識)にかかわる部分であり、さらに詳しく知りたいところ。

本書、もったいないなと感じるのは、冒頭の佐藤学さんの解説(「序章」扱い)。佐藤学さんの社会科への問題意識と構想を高らかに述べ、脇坂実践を持ち上げる。述べていることそのもの(の多く)は理解できるのだが、最初にこんな壮大な話をぶたなくても、本体の脇坂さんの実践記録を読めば読者にはよさが伝わるのに、というのが気になった。せめて巻末に「解説」として持ってくればよいのに。おそらく、出版社の販売戦略といった事情もあるのだろうが…。

脇坂さんが、今考えていること。
先ほど述べたような資料の出し方は、子どもが傾いた意見の方向にあえてそれと異なる資料をぶつけたりなど、ある意味、「作為的」だ。実際、子どもも慣れてくると、「先生、まだ資料あるんでしょー」とか言ってくるらしい。そのため、一度、教師の側が持っている材料を全部バーンと出して、そこから子どもたちと考えていくような授業もやってみたい、と。挑戦を止めない脇坂さんのこれからの実践も楽しみだ。

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