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教師自身が心を動かし、頭を働かせること ~鈴木惠子、宇野弘恵『心を育てる』

鈴木惠子、宇野弘恵『心を育てる』東洋館出版社、2024年

学校現場を退職されて10年になる鈴木惠子先生が、自らの実践を語る。
読んでいて懐かしい感じがする本。

20年以上前、私が院生だった頃、学校の先生方の実践記録をよく読んだし、実践報告をよく聞かせてもらった。そこで、教育実践そのもののよさ、また、出来事を捉える先生方のまなざしの素敵さに触れ、以降、実践と近い領域での研究活動を続けてきた。そうした気持ちを思い出す。

昔の学級だよりを読み返しますと、私は1年中子どもたちのことを面白がっていたんだなと気づきます。/落とし物係さんが「これ誰のですか〜」って落とし物の鉛筆を見せるんです。ひろし君がどれどれとおもむろに前へ出て行って、くんくんと匂いをかいで、「あっ、これ俺のんだ!」って言うんです! 匂いでわかるんかいな?(笑)

p.29

子どもの姿を面白がる

「花を見つける手がかり」で「大がかりって何だろう?」という学習問題に対して、「一度に100匹、200匹もの蝶を使うから大がかりなんだよ」…と教科書の叙述に即して答えを探し出してくるだけでは、何かとても、うわずみだけをなぞっている気がするのです。

pp.73-74

教材に対して教師自身が心を動かす

これらは、私自身、大事にしていること。また、学校現場で、それを大事にできるような授業の振り返りや検討会にしていけるよう、取り組んできたこと。
もっとも、それは裏を返せば、その余裕がなかったり、そうではないあり方に型嵌めされてしまっている現状があるということでもあるが(「手立ての「有効性」の「検証」やら、「気がするのです」とかじゃない「客観的」な分析やら)。

一方で鈴木先生がもつ、鋭い批判性

例えば、道徳の低学年定番教材「橋の上のおおかみ」。

授業の最初に「今日はおもいやりについて勉強しようね」と宣言してしまう授業に対し、ベテランの先生からは「授業の最後に子どもの口から出させたい価値を、最初に先生が言っちゃダメでしょ」と事後研のときに言われる。

でも20代の若き私は、そのとき心の中で「そうかなあ?」と思ったし、今でも「そうかなあ?」と思っているんです。/道徳の授業の目的は、授業の最後に子どもたちから「思いやり」という言葉を出させることではありません。

p.76

あるいは、人間関係やら非認知的スキルに直接的に焦点を合わせるような取り組みが増えた昨今の状況に対しての言葉。

多くの学級で、エンカウンターやソーシャルスキルトレーニングを取り入れて、人間関係力を育てています。それも意義あることかもしれませんが、ただ、子どもが人間関係のスキルを学ぶ機会は、普段の生活の中にいくらでも転がっていることも忘れないでくださいね。

p.183

今私が教師教育の現場にいて取り組んでいるのは、こうした、子どもの姿を面白がり、自らが心を動かし、一方で批判性を失わない、そんな先生を育てられるようにしていくこと、また、先生たちがそんなありようでいられるような学校にしていくこと、それに尽きるなあ、と思わされる。

だから、帯にある「日本一の授業」みたいな紹介の言葉は、正直私にはしっくりこない。

鈴木先生が特別なんじゃなくって、全国の先生方が当たり前のようにこうしたあり方で学校にいられること、子どもと接したり授業をしたりできること。鈴木先生自身もそれを望んでおられるんじゃないかと思う。

それはおそらく、教師個人にのみ求めるようなことでもないのだろう。
本書に、月1回、全校で昼休みに行われる長縄集会の話が出てくる。
そこで、鈴木学級の子どもたち、やる気のあるなしで二分され、「やる気のある人たちだけでやりたい」という声が上がり、学級内で議論になる。

でも話し合いの末、子どもたちが出した結論は、「やる気のない人は出なくていい。今まで一生懸命やってきた人だけで出よう!」という厳しいものでした…。

p.107

正直なところ、私はこれを読みながら、「けれども、すったもんだの末、当日は結局全員で出るのだろう」と思っていた。
ところが、そうではない!(具体的にどうなったかは、本書を読んでのお楽しみ)

クラスの子どもたちもそれを見守った鈴木先生もすごいと思うが(しかも、鈴木先生、集会当日は出張で不在)、クラス対抗の長縄集会で、クラス全員で出ないクラスがあることを許容した学校もすごいなあと思う。
こうした学校のありようと、個々の教師のありようは、きっとつながっている。

本書を読んでいてブワッと涙腺が緩んだのは、知的障害のある「ただし君」のエピソードでの記述。
修学旅行のグループ決めのときに「修学旅行では、ただし君とはどうしても同じ班になりたくないと泣いて訴える子が、何と8人も立った」(p.168)という出来事があり、そこから本音でのぶつかり合いが生じ、その後もさまざまな経過を経る。そこでの鈴木先生の言葉。

子どもはいつだって教師を超えるのです。

p.172

エピソードの中身もさることながら、この一文で私は揺り動かされた。

この文で私が揺り動かされたのは、私自身がそういう経験を持つからだ(私の場合、「子ども」というか、あるところでの高校生らとの話なのだが、中身は割愛)。
子どもたちとの出来事、それに対する受け止め方というのは限りなく個別的なものなのだけれど、それと重なるものをもつ者が、文章を読んで共鳴する
ナラティブがもつ力といってしまえばそれまでなのだが、良質の実践記録がもつそうした魅力をあらためて体感できる本。

もちろん、鈴木先生が活躍してこられたときと、時代の違いはある。
先ほど挙げた月一の昼休みの長縄集会だって、今だと、そのあり方自体を見直すことも必要になるかもしれない。
鈴木先生のような教師としてのあり方が、今の学校現場だったらどんな形をとって現れるのか。どんな実践を生み出すのか。
それを考えていく必要がある。

本書、装丁とデザインもよくできている。
鈴木先生の語りに対してコメンタリーとして挿入される、宇野弘恵先生パート。デザインの工夫で、ここの切り替わりもわかりやすいし、優しい雰囲気に包まれている。
手がけたのは、東洋館出版社の編集者・北山俊臣さん。本書を仕掛けた糸井登さんが直接頼み込んだらしい。

電子書籍版もあるようだが、できれば紙版で、是非どうぞ。


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