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子どもたちの「探究」を教師への忖度に終わらせないために

子どもが自分の頭で考えるということを本当にきちんと授業の中に組み入れようとすると、今までの学校の授業において想定されてきた子どもたちの活動が、いかに狭い範囲に押し込められた(=教師にとって都合がよい)ものだったかということが如実に浮かび上がってくる。

教職大学院の授業で実践報告が行われた、院生が実習校で実施した小1道徳の授業。指導書の流れは、見開きのイラストの中から、「よいことをしているどうぶつ」を見つけ、「それがなぜよいか」を考えさせ、「そのときの気持ち」を想像させて、「(よいことを)実践しようと意欲」に結びつけるというもの。院生の授業も、おおよそそれに沿った展開。が、実際の授業では、校庭の木に登っている動物を「よいこと」の例として挙げたある子どもの発言を受けて、子どもたちの間で、「だめじゃん」「サッカーボールが木にのっているからとってあげてる」「先生が怒ってる」「悪いこと決定!」「そんなに悪いことなの?」など紛糾する。立ち尽くす院生。担任の先生がフォローに入るが、事態はいっそう混迷。

もっとも、これは、善悪という難しいテーマを扱うものであるにもかかわらず、一般的に想定されている道徳の授業の展開がいかに子どもだましの(欺瞞に満ちた)ものなのか、を浮かび上がらせるものでもある(なお、実はこの授業は、院生同士の模擬授業のときにも、紛糾した。模擬授業で学習者の立場を経験したり実践報告で子どもの声を聞いたりするのは、そうした「欺瞞」に気付くうえでも意味があるものだ)。

先日参観させていただいた海老名中学校の深谷新先生の中3理科の授業。「生命」をテーマに10月まで探究活動を行っていくうえでの「問いだし」の活動。深谷氏は最初に「遺伝子」を扱ったテレビの科学番組を見せて、ある種の方向付けをしていた。それでも、生徒たちが出す「問い」は多種多様。「枯れた草をどうにかして生き返らせることは可能なのか」「不老不死に近付くには」「死者と対話することは可能か」といった、「死」にかかわるものも多い。
「死」は、実証的に扱えないという点で、現代の自然科学の研究においては基本的に避けられているテーマだ。けれども、「生命」をテーマにしたときに、その裏返しである「死」に関心をもつのは当然のことであるし、実際、歴史的には、(今では非科学的とされる)「不老不死」を追い求めることによって、科学が発展してきたという側面もある(なお、「死者との対話」やら「不老不死」やら「輪廻転生」やらが今もたびたびコミックのモチーフになっているのも偶然ではない。それは人の原初的な想像力や好奇心にヒットするものなのだ)。
そうしたものを「学習指導要領が規定する理科の内容に含まれていないから」という理由で排除したとしたら、それはまったくもって、教える側の都合だ。もちろん、自然科学的なアプローチの意義や強さを生徒らに知ってもらいたいというのは大事なことだが、そのために、生徒が当然の疑問をもつことを抑圧し、「結局先生が求めるものの範囲内でしか考えてはいけないのね」と思わせてしまっては、元も子もない(なお、深谷さんの実践は、そうした諦観を生徒に生じさせない、探究に際してその生徒がもつパッションを徹底的に大事にするという点に、凄さがある)。

「探究」が、今、教育界でホットなトピックとなっている。けれども、「探究」というのは、本来、それを本当の意味で大事にしようとするならば、しばしば執着逸脱暴走を招いて教師を困惑させ、これまで教師が(学校教育が)もってきた「○○では○○を学ぶもの」「○○はこのように学ぶもの」といった枠組みを揺さぶる可能性をもったものなのだ。
そのことに対する自覚なしに「探究」を形式上取り入れたとしても、それは、新たな「学校化された」(=嘘くさい)学びをまた一つ生みだすことにしかならないだろう。

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