パリが好きだった人と、もう二度と会えないかもしれない話(前編)

2017年8月末付けで、新卒から7年と5ヶ月お世話になった会社を辞めた。今月から新しいことを始めてみようと思って、今これを書いている。

フランス、とりわけパリが好きだった美容師の方がいた。彼は僕よりおそらく10歳くらい年上で、長らく吸っていたタバコを辞めた人だった。タバコを辞めてから一度だけ吸いたくなったことがあったそうで、それは東日本大震災の後、世の中の理不尽さと自分の無力さに対して非常に腹が立ったから、というようなことを言っていた。結局「ここで吸ってしまったら今までの努力は水の泡になる」という理由で吸わなかったそうだ。

彼と初めて会ったのは、2003年、僕が高校二年生の時である。渋谷と原宿のちょうど真ん中あたりにあるその高校に通っていた僕と、青山通りに面したとある美容院で働いていた彼。きっかけは、その美容院に通っていた高校の友人からの紹介だった。高校生の僕は、とにかくモテたくて、かっこよくなりたくて、男子中高校生向けのファッション雑誌なんかを買いあさりながら常に髪型や流行のファッションを気にしていた。なので、どこで髪を切るのか(どこの美容院に行くのか)ということは、学業成績や部活動、高校卒業後の進路に匹敵するくらい大きな問題だった。

当時の僕は父親の仕事の関係で千葉県の船橋市というところに住んでいて、毎日渋谷まで一時間ほどかけて学校に通っていた。どこで髪を切るのか、という問題で高校生にとっての選択肢は、おそらく二つしかない。一つは家の近く、もう一つは学校の近く。アルバイトをしていれば他の選択肢もあるかもしれないが、していない僕にはこの二つしかなかった。

多感でなおかつ定期券で渋谷まで行ける僕にとって、渋谷に行かない手はない。「髪?あぁ、青山の美容院で切ってるよ」と地元の友達に言った時の優越感。ほとんどそのためだけに渋谷の美容院に行きたいと思っていたのだが、渋谷より船橋の美容院の方が、いくらか安い。そしてアルバイトをしておらず、毎月のお小遣いで美容院に行く僕にとって、仮に数百円の差だったとしても、その差は大きかった。なので、結局のところ、家の近くの美容院に通っていたのである。

そんなある日、仲の良い友人の一人が「青山通り沿いにいい感じの美容院あるよ、安いし」ということで、その美容院を教えてくれた。カット、シャンプー、ブローで2,000円。当時も今もそれが主流かは分からないが、シャンプーからカット、スタイリングまで全て同じ人が担当することで、低価格に抑えられているとのことだった。とにかく、青山の美容院に二千円で行けるということなので、当時の僕はその話に飛びついた。そしてその友人が担当してもらっていた美容師の方を紹介してもらった。それが彼との出会いである。

そして結局、それから12年、2015年の年初まで、僕はその美容師の方に髪を切ってもらうことになる。途中2回ほど、諸事情により別の美容院に行ったこともあったが。

2003年に通い始めてから2005年の高校卒業まではその美容院に通っていた。髪を切ってもらっている時に話す内容といえば、最近の学校での出来事、受験が迫っているがおそらくどこにも受かりそうにないこと、彼女ができたできない等、ごく普通のことだった。彼は寡黙な人なので、僕が一方的に話すのをただ微笑みながら頷いていた。また、髪型を決める時、最初のうちは雑誌の切り抜きを持って行ったりしたのだが、いつからか彼と話して決めるようになっていた。何となくこうしたいというイメージを伝えて(ばっさり切りたい、今回は少し残しめで、当時流行っていた前髪をアシンメトリーにしてほしい等)、それから後は彼に任せて、随所で確認しながら、イメージと違うと軌道修正をして、という感じだった。男女関わらず床屋や美容院で、思っていたのと出来栄えが違う、ということはあると思う。が、彼に切ってもらってからは、そうしたことは一度もなかった。髪型命の男子高校生にとって、非常に嬉しいというか、助かることだった。

そして大学受験に失敗した僕は船橋で一年の浪人生活を送ることになる。そしてその浪人生活が始まってすぐ、2005年のゴールデンウィークあたりだろうか。突然その美容師の方から我が家にダイレクトメールが届いた。

〜この度独立することになりました。新しい店舗は代官山になります。よろしければお越しください〜

代官山。渋谷から東急東横線で一駅のその地には、中高六年間渋谷という街に通いながら、一度も降り立ったことはなかった。

そのダイレクトメールを頂いてから、とても悩んだ。浪人生活の一年間くらい、他のことに脇目も振らずただひたすら勉学に励むんだ。散髪のためにわざわざ電車で一時間以上もかけて代官山へ行くなんて、時間がもったいない。一方、缶詰状態の浪人生活、たまの息抜きで行きたい美容院に行くくらいいいじゃないか。

結局、浪人中は地元の美容院に通うことにした。決して自分を戒めていたわけではなく、なんとなく区切りというかけじめのようなものがあったのだろう。美容院に電話をして、浪人生活を送ることになったので、終わったら行きたいと思う、と。彼は優しく「勉強頑張ってください。お待ちしています」と言ってくれた。

そして、浪人生活が終わった。結局第一志望の大学には行くことができず、かといってもう一年浪人生活を送る気力も根性もなかった僕は、受かったところに行くことにした。そして入学式を終えてガイダンスも一通り済んだ頃、約一年ぶりに彼に髪を切ってもらうことになった。その頃から、カットだけでなくカラーやパーマもたまにお願いすることになった。

その代官山の美容院は、代官山駅から徒歩数分のアパートとも雑居ビルともとれる建物の一室を店舗としていた。

表に看板等はなく、また大々的なプロモーションも行なっていなかった。お客さんといえば、僕のように前の店舗から写ってもらった人、旧知の知り合い、そして撮影前のモデルさんのスタイリングのような感じだった。お店に所属している美容師は彼一人だったが、場所貸しのようなことをやっていたと思う。鏡が三つ、シャンプー台が二台しかなかったが、もちろん彼一人で全てをフルに使うことはなかった。

店内は全体的に落ち着いたトーンでまとめられていて、とにかく居心地が良かった。インテリアからBGMまで、随所にオーナーである彼のこだわりが詰まっていた。居心地が良すぎて居心地が悪かったくらいだ。

通常(どうやって通常のお客さんがこの美容院を見つけて来るのかは分からなかったが)カットとシャンプー、ブローで6,000円のところ、前の店舗から来てくれはお客さんということと、学生だということで確か最初は4,000円くらいだったと思う。大学を卒業したら五百円値上がりして4,500円になった。

僕が髪を切りに行くのは、今でもそうなのだがだいたい二ヶ月に一回くらいのペースだ。髪が伸びるのが異様に早く、また毛量が多いため、かなり短くしても二ヶ月もすればかなり長くなってしまう。なので、二ヶ月に一回、年間約6回ほど、この美容院に来る生活が始まった。

僕が来る時、だいたいお客さんは僕一人だった。僕が到着すると、ちょうど前のお客さんが終わって会計をしている最中というシチュエーションが多かった。入り口すぐに置いてあるソファーに腰掛けて、インテリアや知り合いのデザイナーの人が製作したであろう作品(絵画が多かった)が、主張しすぎるでもなく絶妙に配置されていた。たまに店舗で個展のようなこともやっているらしかった。

そして僕自身、二ヶ月に一回のペースで訪れるこの空間が、他の何よりも好きだった。

大学生時代は、学校生活やアルバイトのこと、そして就職活動やら将来やらについて、色々な話をした。彼は高校を卒業してから美容師の専門学校に通い、卒業後に美容院で働き始めたため、大学生の学生生活や就職活動について、興味津々に話を聞いてくれていた。

そして四年間で無事に大学生活を終えた僕は、葛藤を抱えながらも会社に就職することになる。そう、先月退職した会社である。

就職して社会人になってからも、彼の元に通い続けた。会社員として会社勤めをしたことのない彼は、会社組織で働く僕の話を、これまた興味津々に聞いてくれた。僕の仕事の愚痴も、ただ黙って微笑みながら頷いてくれた。たまに「いやそれはホントにムカつくよね!!」と同調してくれることもあった。

そして僕は、2011年の11月から、結局退職までいることになった群馬県にある支店に転勤することになる。転勤してからも、二ヶ月に一回ここに来ることは変わらなかった。たまに群馬の地酒なんかをお土産に持って行ったりすると、本当に喜んでくれた。

群馬生活が慣れてきた頃、転職を考え始めた僕は、どういうわけか転職ではなく社会人大学院に通うこととなった。まず今のまま転職しても、きっと自分の納得のいく結果は得られないだろうと思ったのと、学生時代ろくに勉強をしてこなかったためか、急に勉強をしたいと思うようになったからだ。

そして大学院で経営学を学んでいる時に、彼とビジネスについて話したことがある。

彼はもちろん美容師を生業としているのだが、あまりに商業主義的になりすぎることを好んでいなかった。美容院は結局のところ、お客さんの来店頻度が上がれば収益は増える。しかし、ヘアスタイリングを通して人のライフスタイルを本人の納得のいく、素敵なものにする手助けをしたいという彼の信念は、収益が上がり続けるようなしくみとは相反するものだった。本人もそのことで悩んでおり、僕にその悩みを吐露したこともあった。

そんなある日、僕は大学院の講義で、とある経営者の話を伺った。某万年筆メーカーの社長さんで、年齢的には70前後だっただろうか。

万年筆を使うタイミングは、そう多くはないだろう。それに加えて、人口減少やコンピューターやスマートフォンの普及等、人が手書きで、しかも万年筆で何かを書くという機会はかなり減ってきている。実際、同社も何度も経営危機に瀕してはそれを乗り越えてきた。

そしてその社長さんの話で興味深かったのが、万年筆のインク交換の話である。万年筆そのものはひとつ買えばだいたいみんなそれを使い続けるので、主な収益源はインクの買い替えだ。なので、すぐなくなるようなインクを売れば、確実に収益は上がる。しかしその社長さんは、どんなに経営が危機に瀕しても、インク交換はお金がかかるし手間だという顧客目線から目をそらさずに、長く使える、交換頻度の低いインクを販売し続けた。結果として、顧客のロイヤリティーが高くなり、経営も軌道に乗っている。今でもトップメーカーのひとつだ。

その話を彼にした時、彼は自分のやり方は間違っていなかったと確信できたそうだ。金儲けよりも、顧客目線。彼の場合は自分のスタイルを貫くこと。それが結果として収益にも繋がる。今は大変かもしれないけど、いつか必ず。

そんな話をしながら、僕はそのお店がなくなる2015年の年初まで、その美容院に通い続けて、ずっと彼に髪を切ってもらった。(続く)



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