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「『年収の壁』突破給付」を許してはいけない!

みなさん、こんにちは。年金界の野次馬こと、公的年金保険のミカタです。

今、年金界隈での話題というと、「年収の壁」の問題でしょう。短時間労働者が年収の壁を意識した就業調整をするために、本人の所得が伸びないばかりか、人手不足の原因となっているということで、壁を超えて働けるよう、手取り収入の減少分、すなわち社会保険料負担を国に助成しろ、という政策提案が国会で議論されています。

この政策提案が、短時間労働者の適用拡大に絡んだ、経済界と政治家によるレントシーキング(たかり)であることを、こちらのブログで何度となく紹介させていただいている権丈善一教授は仰っています。

労働者の人件費を抑えることによって事業を維持してきた多くの企業にって、短時間労働者の社会保険料負担が増える適用拡大は、受け入れがたい政策であり、それに対して様々な手を使い抵抗してきました。

その様を、アメリカにおけるロビー活動をネタにした映画「サンキュー・スモーキング」と絡めて、権丈先生は、以下のようなブログも書かれています。

映画「サンキュー・スモーキング」のすゝめhttp://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare67.pdf

今、年収の壁を巡って起きていることは、まさにそのような事なのですが、そのポイントとなるのが、「情報操作(スピン)」です。

今回の件では、野村総研が昨夏に出した年収の壁に関するレポートが情報操作に使われている、というより、情報操作のためにそのレポートが書かれたのではないかと思われるのです。

そこで、この野村総研のレポートの内容について検証し、これが適用拡大に絡んだレントシーキングのために書かれたものであることを明らかにしたいと思います。

野村総研のレポートは、昨年の8月に、2回に分けて公表されたものです。


情報操作その1:パートの労働時間減少の理由

まず、第1回のレポートで示されている、以下のグラフと解説を見てください。

出典:野村総研レポート「女性の経済的自立の実現には何が必要か(1)」

1993年以降、2022年現在まで、時給が上昇する一方で、一人当たり月間労働時間は減少している。そのため、年収はほぼ横ばいになっている(図表2)このように、パートタイム労働者の年収が長期に渡って横ばいとなっている問題については従来から指摘されており、その原因として、パートタイム労働者の6割を占める有配偶女性が、税金や社会保険料の支払い対象外となる年収の範囲に留まるよう、労働時間を調整する「就業調整」の影響も大きいと言われている(注)。いわゆる「年収の壁」と言われる問題である。

(注)株式会社マイナビが実施した「主婦のアルバイト調査(2021年)」によると、アルバイトとして働く主婦の過半数(51.3%)が「就業調整」をしていると回答している。

出典:野村総研レポート「女性の経済的自立の実現には何が必要か(1)」

「時給は上がっているのに年収がほぼ横ばいなのは、就業調整による労働時間の減少のため」ということですが、冒頭で紹介した権丈先生の投稿で指摘されている通り、これは、パートタイムで働く高齢者の増加という要因も考えられます(下のグラフ参照)。

権丈英子「経済教室 労働の質向上へ政労使協調」『日本経済新聞』2023年2月23日

野村総研のレポートで使われているデータ(毎月勤労統計)には、年齢別のデータがないため、パートタイム労働者の労働時間の減少が、就業調整によるものか、元々長く働く必要のない高齢者の増加によるものか、検証できません。

にもかかわらず、「就業調整のために年収が伸び悩んでいる」点だけを強調するのは、情報操作といえないでしょうか。

また、野村総研レポートの(注)では、「アルバイトで働く主婦の過半数が就業調整をしている」というアンケート調査を紹介していますが、これも以下の点で注意が必要だと思います。

  • パート主婦自身が、年収の壁についての理解が不十分だったり、誤解したりしていて、必要のない就業調整を行っている可能性がある。

  • 雇用する企業の側から、社会保険料負担が発生するような働き方での契約を避けることがあり、これを就業調整と混同している可能性がある。

情報操作その2:壁の高さを過大に見せる

次は、第2回のレポートで述べられている以下の部分です(太線による強調は筆者が加えたもの)。

人事院「令和3年職種別民間給与実態調査」によれば、「家族手当制度」がある事業所は全体の74.1%を占めるが、そのうち「有配偶者を対象に家族手当を支給する」事業所は家族手当制度がある事業所中74.5%である。また、それら有配偶者を対象に家族手当を支給する事業所のうち86.7%が、「(「家族手当」の支給には)配偶者の収入による制限がある」と回答している。配偶者の収入によって支給を制限している事業所が設けている「配偶者の収入(年間)上限額」は「103万円」が最も多く(45.4%)、次いで「130万円」となっており(36.9%)、「130万円」以下で全体の8割以上(82.3%)を占めている。

出典:野村総研レポート「女性の経済的自立の実現には何が必要か(2)」

これは、配偶者を対象にした家族手当(以下、配偶者手当)に対して、配偶者の収入に制限を設けている事業所の割合について説明しているもので、ぱっと見だと、全体の8割以上が103万円と130万円を手当を支給するための上限としてしているように見えますが、上の文章を整理すると、以下のようになります。

A)家族手当制度がある事業所:全体の74.1%
B)配偶者手当のある事業所:A)のうち74.5%
C)配偶者手当に収入制限を設けている事業所:B)のうち86.7%
D)103万円を配偶者手当の収入上限としている事業所:C)のうち45.4%
E)130万円を配偶者手当の収入上限としている事業所:C)のうち36.9%

したがって、103万円を配偶者手当の収入上限としている事業所は、全体の21.7%(=74.1%×74.5%×86.7%×45.4%)で、130万円の方は全体の17.7%(=74.1%×74.5%×86.7%×36.9%)となり、合わせても全体の4割程度にしかすぎません。

そして、103万円以上で配偶者手当が無くなる企業は全体の2割程度しかないにもかかわらず、これと、適用拡大の対象事業所(従業員数101人以上)で働く短時間労働者について、106万円(月収8.8万円)で発生する社会保険料負担を合わせて、世帯の手取り収入が24万円減少すると、壁の影響を過大に見せています。

レポートから抜粋した壁の影響の試算をご覧ください。

出典:野村総研レポート「女性の経済的自立の実現には何が必要か(2)」

この試算は、下の画像のように、国会の審議において、パートの社会保険料を補填するという提案するための資料として使われています。ご丁寧に「世帯手取り額24万円減少」、「働き損が発生」というコメントもスライドには追加されていますね。

2023年1月30日衆議院予算委員会 萩生田議員提出資料

情報操作その3:「年収の壁」の説明が不正確

そもそも、年収の壁についてのレポートなのに、壁についての説明が不正確というか、壁がとにかくマイナスの影響を与えるというイメージを与えるために、意図してそのようにしているように見えます。

下の表は、第2回レポートで示されている「年収の壁」に関する説明です。

出典:野村総研レポート「女性の経済的自立の実現には何が必要か(2)」

以下に、不正確で必要以上にマイナスのイメージを与えている部分について説明します。

103万円の壁:これを超えると夫が配偶者控除を受けられなくなる

夫の年収が1095万円以下なら、配偶者特別控除が満額(38万円)適用されるので、影響はなし。妻自身には所得税がかかるが、手取りの逆転はなく、壁にはならない。配偶者手当も103万円を年収の上限にしている企業は全体の2割程度。

106万円の壁:これを超えると勤務先によっては社会保険加入

従業員101人以上の企業で働く短時間労働者(週労働時間20時間以上30時間未満)で、月収8.8万円(年収106万円)以上だと、厚生年金と会社の健康保険、すなわち被用者保険に加入となります。保険料負担は発生しますが、それに見合って保障や給付が手厚くなるので、これを壁と呼ぶのは間違いです。また、要件となる月収は基本給で、各種手当、賞与は含まれません。

130万円の壁:これを超えると社会保険加入が必要に

従業員100人以下の企業では、130万円以上となると夫の扶養から外れることになります。その場合、労働時間が週30時間(正社員の4分の3)以上でないと、国民年金と国民健康保険に加入することになり、保険料負担は生じますが、保障は扶養に入っている時と変わりません。したがって、この130万円を「壁」と称することは理にかなっていて、130万円の壁を解消するには、適用拡大をさらにすすめていく必要があります。

結局130万円以外を「壁」と呼ぶのは、誤解を与えるもので、就業調整しているパート労働者も誤解によって、本来必要ない就業調整をしているのではないかと感じます。

壁に関する解説では、日本経済新聞の3月17日の朝刊(電子版は20日)に掲載された記事「『年収の壁』誤解を解く 就業調整、年金踏まえ検討」が分かりやすく、記事では下のような表が使われていました。野村総研のレポートのものとはずいぶん違いますね。

日本経済新聞「『年収の壁』誤解を解く 就業調整、年金踏まえ検討」2023年3月17日

情報操作その4:政府の報告書を曲解

第2回レポートにおける、以下の記述(太線による強調は筆者が加えたもの)も誤解を招くものです。

このような「年収の壁」が女性の就業の阻害要因となっている実態については、政府も認識している。岸田政権が2022年5月にまとめた「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」においても、「女性の就労の制約となっている社会保障や税制について働き方に中立的なものにしていくことが重要である。」とし、「106万円の壁」や「130万円の壁」の見直しの必要性に加え、配偶者の収入要件がある企業の手当の改廃・縮小への議論が行われることを期待する、と言及されている。

出典:野村総研レポート「女性の経済的自立の実現には何が必要か(2)」

上のレポートの文章だと、「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」(以下、グランドデザイン)において、「106万円の壁」や「130万円の壁」の見直しの必要性がある、つまり現行制度の方向性に問題があるという風に読めます。

では、実際グランドデザインにおいては、どのように書かれているのでしょう。下の文章がグランドデザインにおける当該部分です(太字による強調は筆者が加えたもの)。

【女性の就労の制約となっている制度の見直し等】
女性の就労の制約となっている社会保障や税制について働き方に中立的なものにしていくことが重要である。 被用者保険の適用拡大が図られると、女性の就労の制約となっている、いわゆる 「130万円の壁」を消失させる効果があるほか、いわゆる「106万円の壁」についても、最低賃金の引上げによって、解消されていくことが見込まれる。 多様な働き方に中立的でない扱いは、企業の諸手当の中にも見られる。配偶者の収入要件がある企業の配偶者手当は、女性の就労にも影響を与えている。労働条件であり強制はできないが、こうした点を認識した上で労使において改廃・縮小に向 けた議論が進められることを期待する。

「新しい資本主義のグランドデザイン及び実行計画」

いかがでしょう。この文章が「106万円の壁」と「130万円の壁」についての見直しの必要性について言及していると言えるでしょうか。

私には、それぞれの制度の見直しというよりも、壁を解消するための方向性が示されているようにしか見えません。

つまり、適用拡大によって週の労働時間20時間以上30時間未満の短時間労働者を保障の手厚い被用者保険の対象にすれば、106万円以上で被用者保険加入となるので、130万円の壁は関係なくなる。そして、最低賃金が1200円まで上がれば、週20時間で手取りが106万円を上回り、106万円の壁は解消することになる。

もちろん、手取りが106万円を下回っても、その分保障が手厚くなるのだから、本来これを壁と称するのは間違い、ということは繰り返し強調しておきたいところです。

第3回のレポートで認めた被用者保険の恩恵

2022年8月に野村総研が公表した2つのレポートの狙い通り(?)、10月から施行された適用拡大の企業規模要件の緩和によってパート労働者の手取りが減るというメディアの報道を頻繁に目にするようになりました。

一口にパート労働者といっても、被扶養者の主婦だけでなく、雇用されている労働者であるにもかかわらず、短時間の非正規雇用であるために被用者保険に入ることができなかった人たちもいるわけで、そのような人たちにとっては、被用者保険に加入することによって、保険料負担は軽くなり、保障は手厚くなるというメリットしかないのですが....

そして、世の中に「年収の壁」、「働き損」というイメージが拡散されていく中、就業調整はパート労働者の収入を抑えるだけでなく、人手不足を招いているとして、壁を超えて働けるよう、パート労働者に生じる保険料負担を補填するべきという、とんでもないバラマキ案が浮上してきたのです。

野村総研は、8月に公表したレポートの続編として、2月に下のレポートを発表し、そこで提案されているパート労働者への保険料負担分を補填する給付という案が国会で取り上げられたのです。

このパート労働者への給付は、時限的なものとされながらも、保険料負担なく保障が手厚くなり、しかも給付の対象は、扶養されている専業主婦に限定するということで、単身者や就業調整せずに被用者保険に加入していた専業主婦との間の公平性の観点から、大きな問題があるはずです。

しかし、不思議なことに、これに反対する声はそれほど上がらず、もしかしたら、本当に実現してしまうかもしれません。まあ、彼らの情報操作が巧みで、それを見抜けず、むしろサポートするような報道を繰り返したメディアが間抜けであったということなのでしょうか。

ところで、この3回目のレポートでは、「『年金の壁』突破給付」に関する解説以外で、注目すべき点がありました。それが以下の文章です(太字による強調は筆者が加えたもの)。

働き手の働く意欲を阻害し、収入を得る機会を失うような現状の改善は待ったなしだ。岸田政権が進める全世代型社会保障への改革のなかでも、働く時間や雇用形態にかかわらず、全ての働く人を会社員と同じように厚生年金と健康保険に加入させる「勤労者皆保険」の実現を目指している。働く誰もが社会保険料を負担するようになれば、少なくとも「働き損」はなくなり、就業調整の必要はなくなる。収入に応じて社会保険料を負担し、勤労者が等しく社会保険の恩恵を受けられるようになることには賛成だ。しかし、そのような最終形へのロードマップは未だ示されていない。明らかになっている被用者保険の段階的適用拡大の準備を行う間にも、働き手が収入を得る機会、事業者が人手を確保する機会が失われ続けていく。

出典:野村総研レポート「女性の経済的自立の実現には何が必要か(3)」

太字で強調した部分ですが、「収入に応じて社会保険料を負担し、勤労者が等しく社会保険の恩恵を受けられるようになることは賛成だ」ということならは、前2回のレポートで、社会保険(ここでは被用者保険の意味だと思います)の保険料負担が生じるための「106万円の壁」とか「働き損」と言っていたことと矛盾しないでしょうか。

現時点では、週の労働時間が20時間以上という条件があるので「勤労者が等しく」という状況になるには、まだ時間を要すると思いますが、だからと言って、現時点で、被用者保険の加入対象であるにもかかわらず就業調整によって加入を回避する人がいるならば、「被用者保険の恩恵」をしっかりと伝えるべきではないでしょうか。

「『年収の壁』突破給付」のゆくえは?

2月に保険料肩代わりの話が国会で出てから、しばらくは反対を唱える声もさほどありませんでしたが、ここにきて、メディアやステークホルダーからは、これに対して疑問視する声が上がってきているようです(連合の事務局長談話以外は、有料会員向け記事)。

以下に、私なりにこの「『年収の壁』突破給付」の問題点をまとめてみました。

  • 扶養に入っているパート労働者だけを助成の対象とすることは、単身のパート労働者に対して公平ではない。それならば、単身者も含めてはどうかという案も出てくるが、それでは単なるバラマキで筋が通らない。

  •  既に、壁を乗り越えて被用者保険に加入しているパート労働者はどうするのか。2016年10月に501人以上の企業を対象に、短時間労働者の適用拡大が実施された際には、このような話は出てこなかったのに、なぜ、今回は問題となるのか。

  •  政府の助成などなくても、すでに一部の企業では、パート労働者の保険料負担分を賞与として還元するなど、経営努力によって、パート労働者がより長く働き、それによってスキルや経験を身に着けて業務に活かしてもらおうとしている。政府が助成を行うこは、このような企業の経営努力による競争とそれによる成長を阻害することにならないか。

  • この問題は、今後、企業規模要件の撤廃など、適用拡大をさらに進めていけば、同様に発生する可能性があるが、その時にまた同じような助成をするのか。あるいは、これ以上の適用拡大を進めること自体の障壁とされてしまうのではないか。

今後の議論のゆくえに注目していきましょう。

それでは、皆さんごきげんよう!


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