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ゆっくりと本を読む

秋の忙しさが過ぎ、12月に入ってから本を読むようになった。ただ、本の読み方は少しばかり意識して変えようとして、できるだけ遅く本を読むようにしている。具体的に言えば、毎日15分、音読をしている。

5月だか6月に、本の要約サービスであるflierを使っていたのだが、どうにも合わなくてすぐに辞めた。できるだけ多くの情報を脳みそに詰め込むことを目的として使ってみたはずだが、振り返ってみると、頭の中には何も残っていない。どうやら、要約されたものをさっと読んだところで、それは血肉にならないらしい。

私にとっての読書体験とは、著者との対話なのだろう。書かれている内容にも興味はあるものの、どちらかといえば「これを書いた人はどのような人なのだろう?」という興味の方が大きい。そのため、要約者としての第三者が挟まると、著者との対話に齟齬をきたし、興味を失っていく。

この感覚は、要約ではなくてもそうだ。「これは著者本人ではなくライターが書いたんだろうな」ということが感じられる本、「著者本人が書いた短い文章を、編者が寄せ集めたんだろうな」ということが感じられる本、こういうものは途中で読む気を失う。もちろん、ライターや編者の技量が優れていれば、読む気は継続する。ただし、そのときは「このライターや編者は、著者をどのように理解しようとしたのだろうか?」と視点が少し変わる。

黙読をしていると、無意識に文章を読み飛ばしてしまう。知識として持っている箇所や、重要ではないと思われる箇所、そうしたところを「読者の都合で」読み飛ばす(これが速読の技術であるわけだが)。一方で、音読をしていると「読者の都合」で読み飛ばすことはできない。一言一句、著者が語りたいようにしか読むことができない。

音読は、「音読」という外形とは裏腹に、著者の言葉を徹底的に「傾聴」することが読者に求められるのである。


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