見出し画像

「酒を飲んだりするようになる」ってなんやねん

敗北者は虚空に向かって叫べ。強くキーを打て。そして公開ボタンを押せ。(2020.12.25)
https://blog.tinect.jp/?p=68037

 この記事を読んで「この人は、もはや現代の中原中也じゃん」と涙したが、中原中也のことなんて「汚れちまった悲しみに」のワンフレーズしか知らないことを思い出し、なんで中原中也を想起したのかを確かめるため、とりあえず彼のwikipediaを開いたところ、こんな説明文があった。

 作文の時間、死を描いてきた中也は富倉の家に呼ばれるようになり、やがて大学生グループと展覧会を見に行ったり酒を飲んだりするようになる。

 いや、「酒を飲んだりするようになる」って何。その人の生涯を説明する文章の中に「酒を飲んだりするようになる」って入れるのはおかしくない? 他に書くことがあるだろう、とは思いながらも、文豪と呼ばれる人たちは、だいたい酒飲みな気がしないでもない。現代では「飲みニュケーション」なんてものは嫌われる一方だが、「○○さんと一緒にお酒を飲んだ」というのは、「○○さんと仲良くなった」とほぼ同じように語られることもある。このwikipediaの文章を書いた人も、多分そんなつもりで書いたのだろう。人柄にお酒が付いてくるのは、よくある話といえば、よくある話なのか。

 諫山創『進撃の巨人』に、次のようなセリフがある。

 みんな何かに酔っ払ってねぇと やってらんなかったんだな… みんな…何かの奴隷だった……

 このご時世、お酒に酔うことを楽しみにしていた人たちは、いったい何に酔うことにしたのだろうか。いつか聞いてみたい(ちなみに私はサウナである)。あるいは、昔々の文豪たちからお酒を取り上げたら、どんな嘆きの詩を書いてくれるのだろうかとも夢想する。

 冒頭の記事は、そんな夢想に近いものがある。酔うべき酒もなく、ただただ虚空に向かって表現するしかない物書きの悲哀。なんというか、やっぱり中原中也感がある。

汚れちまった悲しみは
なにをのぞむなくねがうなく
汚れちまった悲しみは
倦怠のうちに死を夢む

※ 中原中也「汚れちまつた悲しみに」より抜粋


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?