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温泉むすめバッシング 考察と提言(えせ同和行為との類似など含む分析)その2

はじめに

前回は問題のコアである誤った三段論法についてえせ同和行為との類似について解説を行った。
より詳しく知りたい点や質問やご感想などお寄せいただれば幸いである。

いくつかの論点(観光地と物語の関係について、性的客体・性的搾取の用語について、被害側を擁護する人権と対策など)があるのだが、状況の推移と併せ多岐に及んでしまう。なので重要と思われる点に関する要点と提案を、始めに端的にお伝えしたい。

・"えせ同和行為との類似性"の捉え方について

 見る限り常識的な方が多く安心しているのだが念の為として。
えせ同和行為は「えせ同和行為」と名付けたから問題と認識できたのではなく、何が問題なのかを見抜いてその分析結果を「えせ同和行為」という言葉でまとめたのである。順序は確認(認識)→分析→まとめである。
 
ネット社会の昨今は、「えせ同和行為に類似している」という問題意識の共有で個々が掘り下げが可能となったありがたい世の中ではあるが、こうした問題に対する私達の対応力の本質とは、問題の根幹を見抜く力をどれだけ多くの人が身につけられるかにある。
 エセ科学など分かりやすい例だろう。学校で学んでいる以上、水素やウイルスなどの単語はほぼ皆知っている。それらを組み合わせて人に危害を加えたり、利益を得たり、正義を気取るための理屈を作る際に用いられるのが(前回説明した)誤った三段論法である。
つまり、いかに非論理的かの分析と議論をしっかり行うという厚みが大事なのである。そうしなければ「類似」という鍵となる言葉がいくら共有されても、後々でそれも巧みな三段論法が登場すれば状況が一変しかねない。
 よって、そうした意味で冷静に、記録を取り、確認を行う
この三点が大事とお伝えしたい。
SFCゲーム『かまいたちの夜』というノベルゲームで犯人の名前を入力する場面があるのだが、適切な過程を踏まないと論理の隙を突かれてBADENDになる。「これは!」と直感が働いてもそれを説明できないと、正しくても通らない場合は多いのである。ゴリ押しは無理。それこそ相手と同じレベルの行動。(くどいね)

・温泉旅館の利用客がおそらく増える

これは非常に個人的な意見かつ推測なのだが、そもそも温泉旅行自体に魅力のあるものである。多くの方々がこの短期間に『温泉』や『旅館』という単語を何度も目にしているのは明らかな以上、年末年始それ以降の利用客がおそらく増えるのではないだろうか。
 なので、同人誌の頒布を予定する方の中で電子書籍化をしていない方は、今回を機に試してみるのを提案したい。
頒布会に行きたいが温泉も行きたい、また厳しいコロナ対策でイベントに行けないといった需要が高まる可能性が考えられるからである。
今回の件の励ましを込めて「どうぞ旅館で読んで」といったアナウンスを電子版の発表と共に行ったなら、それは今回の温泉側、作者側、また関係する企業や官公庁の応援にもつながるだろう。

電子書籍化の方法は申し訳ないが是非検索していただいて。また頒布会だからこそ発表できる(電子化は避けたい)という方は、概要だけの小冊子版はいかがだろうか。
コミケの東西の壁問題なども踏まえての私なりの提案である。上から目線と思われたら申し訳ないのだが、そこはご容赦いただければ幸いである。

長くなってしまったが本文に入る。


観光地と物語の関係について

シンプルな話である。江戸時代から物語の聖地観光という概念は存在していたという話だ。

わかりやすい例が南総里見八犬伝という、水滸伝や三国志など様々な作品がモチーフに取り入れた江戸時代後期の長編小説である。
 作品もその世界観も、入り交じるようにモチーフとして登場する非常に有名なライトノベルもあるのだが、話の本筋から逸れないよう具体名は控えておく。それくらい今なお影響力がある。
現代風にいえばいわゆるファンタジー小説ライトノベルとも言える作品だ。古い言い方では幻想小説である。

 あらすじ
作品の舞台となるのは戦乱の世の千葉県房総半島。現代の館山市周辺を治めていた里見家の歴史的背景と戦いの場面から話は始まる。やがて美しい伏姫と不思議な生まれの大きな犬の八房の話へと移る。
ある日里見家は的に攻め入られ危機に陥ってしまう。危機に瀕して伏姫の親である城主は八房に「敵将を討ち取れば伏姫を嫁にやるよ」と思わず語りかけると、伏姫を慕っていた八房は敵勢の大将の首を持ち帰ってくる。しかしその言葉は戯言だったのだ。
 周りが止めるも八房の熱意は収まることなく、伏姫を慕いなお荒れ狂う。伏姫は複雑な胸中を抑えながらも、功に報いるのが筋であり約束を違えなど罰を与えるような真似は国の障りだと、約束を守る気概を示し婚姻が許されたのだった。しかし、城主は姫を取り戻すため追手を放つ。
取り戻そうとする戦いで八房は死に姫は帰ってくるかに思われたが、(体を許すことは無かったにも関わらず)姫の腹は膨らんでおり、深く困惑した姫は潔白を晴らすかのように腹へ刃を突き立ててしまう。すると光と共に姫が身につけていた八つの徳目の記された珠が遠く飛び散っていった。
 やがて各地に、珠を握りながら八人の子供達が産まれてくる。深い因縁を持ったこの八人は、様々なドラマを経てやがて代替わり後の里見家へと集結し……
 
という物語である。
どこかの説明サイトのURLにしておけばよかった。江戸時代最長の非常に長い物語である。
 このあらすじからもわかるように、歴史的事実、人物、思想、物語、性観念、時代背景など様々な要素が非常に大きく含まれている。
 作品発表から約50年後の大正期には、「伏姫と八房の隠れた洞窟」や作中の名場面の舞台はここといった観光客に示す看板など、作中の舞台になった実在の地に多々設けられたのである。
 検索して見つからなかったのだが、江戸時代にゆかりの地への観光、今で言う聖地巡りの話があったはずである。勘違いであったら申し訳ない。一応そこが私の間違いでも、明治維新と戊辰戦争を経た後でも作品人気から名所が生まれたという事実の重要さは変わらないだろう。
 作品が原作となる歌舞伎や浄瑠璃や二次創作も数多く創られた。今風に言えば、漫画化、アニメ化、ドラマ化、聖地化、フィギュア化、グッズ化、同人誌のジャンル化、とにもかくにも様々なものに当たる。

ではこの作品は性的搾取であるのか……もはや下らない。興ざめにも程がある。物語と現実は別であるなどとうに誰もがわかっているのである。わざわざ言うまでもないため、この三行を消したいくらいである。

歴史という距離感を持って眺めてみれば、物語と観光とは非常に縁が深いものだとわかる。千と千尋の神隠しの舞台やフランダースの犬の舞台など、作品によって後からその地に観光地としての魅力を追加することもある。
 時系列という点に注目すれば、「この作品(絵)は現実の人間に起きている問題の原因だ」という理屈が的外れなこともわかりやすい。「問題」とさだめているものが、作品や絵よりも前に存在しているものだからだ。
時系列の逆転をまかり通らせる理屈は、前回の記事で示した誤った三段論法であれば成り立つものである。しかし事実関係を検証する、化学や歴史や犯罪捜査など様々な分野では、時系列の入れ替えは誤りと認識される。

ともあれ、魅力ある物語やキャラクターは私達にとって非常に身近な存在であり、観光や芸術などの数多くの分野と多様な影響を及ぼし合っているのである。

今回の温泉むすめは、温泉処の名称や風情や各地の名称そして地域にゆかりの深い物語がモチーフとなっている。
人物の表現も詳しくは端折らせてもらうが、女性作家の作風の影響が見て取れるものもある。少女漫画の影響は大きいものと言えばニュアンスは伝わるだろう。そうした画風の歴史を辿ると、男性作家も現れればまた女性作家も……と様々な人物に行き当たる。この過程では性別が後ろ向きな影響を及ぼすことは無く、むしろ創造の力は性別に関係なく私達に備わるものだと、帰納的(事例を積み重ねで行う事実の確認方法)な証明を見せている。
更に言えば、『性』という時に人を二つに分離しているかのように見せる要素に生じる思い込みを既に遥かに超えていて、そこでは人同士が影響しあい、作品の魅力と豊かさを共有しあい、お互いに敬意が払われている。作品のファンは作者に、作者は作者同士に。そしてそれぞれが作品そして登場人物に。
 世代を超えて先達の遺した作品の影響を語り合い、今この時代という限りある作品と時間の中で私達は関わり合っているのである。

・差別
そうした意味で、温泉むすめというアイデアは、日本において発生した忌まわしき差別の風潮『オタク差別』を乗り越える非常に重大な分水嶺だと言える。
 敬意や理性の上にしか根付かない"作品"の愛好者を標的とした、非論理的な迫害思想である。未だに反省や救済の行われていない重大な問題である。
これが大きな力を持っていた時代であれば実現しなかった計画であろう。

様々な自治体で人気作品とのコラボレーションや啓発ポスターなどが存在している。ただ、数多あるそれらの例と異なった際立った特徴のひとつが、観光産業、国家行政、民間企業、そして漫画家やイラストレーターが、一体となった取り組みという点である。
 大々的にではなく、当たり前のように行われているのが重要だと強調したい。近代国家の基礎となる人権に基づく法と契約によって成立するものである。

そう、当たり前の事が行われたのだ。
この当たり前の事が如何に尊いかは、歴史を知る者も他者に敬意を払う者も知るところである。また個別具体的には公共の仕事を成し遂げたという、作家本人に取っての大きな出来事という側面もあるだろう。

それをひたすらネチネチと、誤った杜撰な三段論法で気安く葬ろうという動きが今起きているのである。

前回記事の始めに引いてはならない段階にあるが、「戦い」にしてはならないと言った理由がこれである。

くどいかもしれないが、これは誤った三段論法の結論部分で戦ってはいけないからである。混乱とその理屈の補強を生み出すからだ。そして一見、指摘や否定がしづらい巧妙な三段論法は、何度も意識させるだけで一種の影響を人に及ぼす。それは罪悪感と結びついた『結論』に対する恐怖である。
 平たく言えば、女性に見えるものを扱うのは避けようという感覚、忌避感である。これが社会に浸透する事によって、女性が女性性を表したり『女性』を描く事などの忌避に至った。そしてその謎の規範を示し扇動する権威との上下関係が固着していったのである。

 贅沢を言えば、第一の前提の確認作業などにも時間が割かれるのは避けたいところである。しかし、市民が平等の権利を持つ社会の中でこの動きが現れたという事は、この当たり前の事を"葬る"という選択正規のルートを通って到達する可能性を示している。

よって、私達は適切な過程を踏み論理の分析をもって "擁護" に到達しなければならない


"物語"と迫害について

歴史や物語を概念的に組み合わせて人を罰しようとするのは中世的発想である。魔女狩りなどはその悲惨な実例だろう。
この出来事においては『魔女に与える鉄槌』という手引書が有名なのだが、この本は歴史上の大規模な女性を迫害対象と見なす大きなきっかけの一つと言われている。
 内容は女性を軸とした様々な定義付けである。
  "敬虔な女性ほど疑わしい、どこそこへ行く女性は疑わしい、なぜなら悪魔はこう狙う、こういう形で関わる……"
 いくつも中略を挟んでいるが、主にこういったものである。

これについては16世紀のキリスト教の分裂に関係した権力闘争が、一番注目すべき要素である。
予め言っておくが、決して教義宗教そのもの原因ではない
解釈のエスカレート権力闘争が並走した事で起きた、筆舌に尽くしがたい悲劇である。当事者である宗教者や常識ある多くの敬虔な庶民は巻き込まれた形とも言える。

というのも、発端となった宗教の教義に関する論争は、領地内での免罪符販売による資産の流出を嫌がった領主達が後ろ盾となり煽られた(継続を促された)面が非常に大きいからだ。
教会という大きな権威と一体となっていた、帝国本体に対する反感が相乗りする形で教義論争は代理戦争的な要素を持つようになったのである。

詳しい経緯はキリがないため要点紹介の形になるが、
まず当時ラテン語がほぼ共通語となっていた。その勢いが失われヨーロッパ各国ではっきりと言語で分かれたのは、この時に王国同士の対立が明確になったのがきっかけである。
当時のヨーロッパは多くの言語が混在しており様々な言語の聖書翻訳が行われ始めた頃であった。対立発生後は、教会が各地の王と結びつく(あるいは庇護を受ける)形で存続したことにより、結果として国ごとの言語の統一が進んだのである。
 そして王国それぞれで庶民の宗派が限定されていった。異端の敵視が激化する条件が整ったと言える。
国内人口の流出は戦争に一番重要な国力の減少と同義である。

各地で異端に対する迫害は激化していった。各地のエスカレートした背景は様々なものと言われている。この論点から眺めている私の意見をここで挟ませてもらうなら、これは順序が逆である。各地の庶民を庶民を支配するために役立ったのが異端の概念だった。敵対勢力への敵愾心を煽り、外国からの思想的な影響力の侵入を阻むために都合のいい概念である。それを各国が行ったから異端と迫害の正当化の理屈の違いが生じていったのだ。異端視を正当化する理由を、対立する国家という枠を超えて共有はしないからである。

王国の対立が深まっていく中、それぞれの街の本棚に残されていたのが『魔女に与える鉄槌』であった。異端迫害の機運が女性を軸とする誤った三段論法を手にした事が、異端迫害は魔女狩りという特徴を持つきっかけになったのだと言えるだろう。
『魔女に与える鉄槌』も元々は「異端に対しどうすればよいのだろうか」という問いに答えたものであった。内容の残酷さを否定するものではないが、当時の知識の範疇で答えたものであり、また「異端に対する態度」はいつの時代も苛烈さが評価されるものである。そして複数の人間が関わった出版の承認の場面では、満足な確認がなく通過してしまう事も多かった。つまりこの本に直接関わった者は誰一人として、このような結果を望んではいなかったのである。
(出版当時は虐殺の直接的な予兆が起きる前。動乱や魔女狩りが始まる前に作者も死亡している)


魔女狩りからの女性救出事例では、錬金術師であり神学者でもあるコルネリアス・アグリッパと医学者ヨハン・ヴァイヤー師弟の働きが有名である。
 魔女として告発された女性の弁護と共に病気(精神疾患)の原因を女性を結びつける『魔女に与える鉄槌』の批判を行い、「魔法の使用」を告訴理由として認めないよう提唱した。ヴァイヤーは精神疾患における内因性(心的ストレスなどの心因や外傷などの外因とは別の原因。現代では遺伝的要因などがここに収まる)を提唱した人物でもあり、精神医学の先駆者とも呼ばれている。
またアグリッパは、デジデリウス・エラスムスという神学者と友人であった。

彼は人文主義(英:ヒューマニスト)の王と評される人物である。
 彼は庶民に分かりやすい教義の解説書やラテン語教本(英語教科書で馴染み深いあの対話形式)、教会の中から平等(女性)の教育の重要性や結婚離婚の自由、更に反戦運動や王の選挙の提唱などでも有名な人物としても有名である。教会内外から各国の王から庶民に至るまで広く敬愛を集めていた。ギリシャ哲学や古代ローマの哲学や文献を後世につないだ重要人物の一人でもあり、その業績は本当に枚挙にいとまがない。
 彼を基点とする友人関係や影響を眺めると、ニュートンの数学的業績に関連するジェロラモ・カルダーノや、新大陸の先住民の迫害を批判した自然権と国際法に大きく関わる法学者フランシス・ビトリアなど、科学や法律で私達の生活に深い影響を及ぼしている人物を数多く見つける事ができる。
 彼の作品や哲学や古い格言の紹介などはシェイクスピアやセルバンテス(ドン・キホーテ)、モンテーニュのエセーなど多くの作品の背景に深く関わっている。
 聖書を引用した女性蔑視に対し聖書を根拠に論理的な批判を展開したレイチェル・スペトという女性の観点にも、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの有名な「女は女に生まれるのではなく、女になるのだ」も「人は人に生まれるのではなく、人になるのだ」というエラスムスの教育論からの引用だったりする。

 今現在三段論法によって「男並み平等を求めた」「男並みの権利を求めた運動」などのレッテルが貼られ、別の中身で語られる場合がほとんど(この経緯に対する様々な批判がある)の「フェミニズム」だが、
 元々は人権運動の中から女性参政権運動に端を発するものがフェミニズムの元来のものである。その元来の方の人権運動の軸とは、エラスムスから続いている、人間性の擁護と徳目の重視そして寛容と平和の理念と表すことができる。理性も人間性に含まれるし、それを用いる際にもお互いへの敬愛が大切になるということである。
語弊がないよう補足として、エラスムスという人物そのものや書物や思想の名前ではなく、まず大切なのは思想の継続性の確認や他者に対する敬愛である。この順序は非常に重要である。宗教や文化的な差異に接しても「権威的な断定や知識」ではなく「確認や敬愛」がまずあったなら、歴史上の数多の悲惨な出来事も違っていたかもしれない、という話である。
 科学の分野では地道な事実の検証も正確な推論の導き方も両方大切にされている。権力闘争と宗教との結びつきの反省は政教分離の発想に行き着いている。そして理性と人間性の重視は西洋と東洋の人々をつなぐものとなった。戦争の最中の国や人種を超えて共感される人道的なエピソードは、こうした道筋を忘れまいとする動きなのかもしれない。


少し(かなり)元のテーマから時代も場所も離れてしまったが、後半は権力を求める動きに注意を注ぐことの大切さや、誤った三段論法と権力争いが結びつく事で起きる出来事、そしてそのダメージの深さや回復の困難さの解説である。
当然の事ながら宗教教義については教会の方の分野である。紹介した個々の話も、当時の状況や著作や人と時代のすれ違いで生じた事などを取り上げたものとお分かり頂けるかと思う。(新たな文献を見つけた場合の訂正の余地などもご了承いただきたい)

今回も長く、そしてこんな時間になってしまった。今回で終わるはずだったのだが仕方がない……

次回は、もう十分かもしれないが「物語と三段論法について」と、「誤った三段論法の蔓延への対応について」を予定している。

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