見出し画像

「学ぶことの楽しさ」にハマる原体験と、先生の話

AbemaTV『NewsBAR橋下』「“橋下新党”立ち上げ!?スペシャル」で、乙武洋匡氏の提言に関するこの記事がfacebookのウォールに流れてきました。

「教育免許を廃止するかどうか」の記事になってますが、僕は、教員免許を取る過程に「学ぶことの楽しさにハマる」という要素が含まれていないことが根本の問題だと思うんですよね。

この類のテーマになると、「学校で学んだ内容を大人になってから使うかどうか」という議論があって、記事でも元素記号やサイン・コサイン・タンジェント使うの?て話が出てきますが、僕は(もちろん、カリキュラムの問題も避けては通れない重要論点だとは思いますが)、それよりも「学ぶことの楽しさを感じさせられる人が学校の先生になっているかどうか」がすっぽり抜け落ちていることが気になります。

学ぶことの楽しさを心の底から感じた原体験を持っている人は、やっぱりその楽しさを覚えていて、大人になってからも学ぶ。

一方で、学ぶことの楽しさを感じられなかったまま学校を卒業した人は、学ぶことが苦痛でしかないから、どこかのタイミングで学ぶことをやめてしまう。

特に、学ぶことをやめてしまった社会人はこれからの世の中、どんどん追い詰められていくことになるので、そういう意味で、「学ぶことの楽しさにハマる原体験を持つかどうか」で人生が決まってしまうなと。

自分の場合、初めての受験が高校受験だったのですが、算数とか数学がとにかく苦手でした。たまたま、このとき中学校時代に素晴らしい塾の先生に出会うことができて、本当に運が良かったと思います。
きっかけは受験勉強だったけれども、単に暗記するとかではなく、「奥にある面白さ」を教えてくれる先生でした。

いま思い出すと、学ぶことの楽しさを感じさせられる先生の教え方って、いわゆるAIDMAになってるんですよね。

●知らなかったことを知る(Attention)
「お前ら、図形の問題が解けなくて悔しいか。今日は、すごく良いことを教えたる。それは”補助線”というやつじゃ!」→「えっ、補助線!?」
(僕は中学受験もしてなくて、小学校の授業をほとんど聞いてなかったので、もしかしたら小学校で補助線とか習ってるのかもしれませんが、中学生になって補助線の存在を認識しました)

↓↓↓

●興味を持つ(Interest )
「しかし、補助線は、ただ引くだけではナンセンスじゃ。補助線はエレガントに引くのじゃ!これを見い!」→「エ、エレガント!?」(おお〜〜)

↓↓↓

●できるようになりたいと思うようになる(Desire)
「しかし、お前らはエレガントに補助線を引こうなんて10年早い!まずはとりあえず何でもいいからどんどん引いてみるのじゃ!」→「先生、10年も経ったら僕ら社会人ですよ」(できるようになりたいな〜)

↓↓↓

●記憶する(Memory)
「(1ヶ月経って)どうだ、お前ら、エレガントな補助線は引けたか?」→「うう〜、なかなか引けません・・・」(でも、図形を見ると「補助線」という言葉が脳内によぎるようになる)

↓↓↓

●行動に至る(Action)
「エレガントな補助線が引けるようになったら、とにかくたくさん問題を解くのじゃ!そして、問題解いたら俺のとこ持ってこい!」→「先生、やってみました。見てください!」

・・・ただ、これはあくまでも後づけで「思い出すとこうなってたな〜」という話で、僕がしたいのは、AIDMAに沿った教え方を学校教員免許試験に入れましょうとかいうとかそういう問題提起ではないんですね。

おそらく、僕が出会った先生も、「AIDMAに沿った教え方」というのをどこかで習ったわけではなくて、おそらくその先生がご自分で数学を勉強したときに、「補助線に感動した原体験」を持っていて、それをもとに中学生の僕らに伝えてくれたのだと思います。

「学ぶことの楽しさに本人が感動してハマった」原体験を持った人が、それをどうやって子どもたちに表現し、同じように感動体験をつくれるか。
そもそも、そういった原体験がない人は、いくらテクニックがあっても厳しいなと思うわけです。

教員免許試験がいきなり廃止とかにはならないと思いますし、一定の免許とかそういった制度はどうしても必要でしょう。
せめて、「学ぶことの楽しさに本人が感動してハマった体験」を表現できる人が、たくさん子どもたちの前に立てるような、そんな仕組みがあったらいいなと思います。

ちなみに、僕は"個性を伸ばす"という考え方はあまり好きではなく、そもそも、人が誰かの個性を伸ばすというのは、まだまだ「管理」の発想で、それよりは「余計な邪魔をしない」ことが大事ではと考えています。が、そのあたりはまた別の記事で・・・。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?