「米留学への出発にあたって⑴」(手記、30歳)

  私が大学に入学した昭和44年は東大の入試が安田講堂の過激派学生の占拠によって中止になり、全国に大学紛争が巻き起こった年であった。4月28日の沖縄反戦デ―には全国から過激派学生が東京に集結し、激しいデモ行進を行い、革命前夜を思わせる新宿騒乱が繰り広げられた。
 私は革マル派のデモ行進を新宿でウオッチしていたが、機動隊の催涙弾で涙が止まらず、興奮冷めやらぬ中、深夜に下宿に戻ったことを鮮明に覚えている。私が入学した早大では入学式はあったが、翌日から「無期限バリケードストライキ」が決行され、半年間授業がなかった。
 半年後授業は始まったものの、毎日「内ゲバ」で学生同士が鉄パイプで殴り合い血を見ない日がない程荒廃していた。早大第一文学部の教室で白昼革マル派の学生に鉄パイプで殴られている光景を多くの学生と教授が目撃していたが、怖くて誰も止めに入ることができなかった。
 翌朝の全国新聞の1面トップに、「川口君虐殺」と大々的に報じられ衝撃を受けた。「平和と民主主義」の戦後教育を受けた戦後世代が一体なぜ学友を殺すのか、という根本的な疑問を抱かざるを得なかった。そんな中、革マル派と闘っていた第一文学部の宮崎正治という学生と出会い、大学正常化運動に飛び込む決意をした。原宿の「ミモザ」という喫茶店で涙を流しながら、決意の固い握手をしたことは一生忘れない。
 大学で講演会などの活動を行うと必ず革マル派が押し駆け、徹夜に近い激論を交わしたが、夜明けごろには戦後世代共通の「根無し草」性を痛感して、「戦後」とは何か、「戦後教育」とは一体何なのか、という疑問に直面せざるを得なかった。
 全国学園正常化運動のトップリーダーとして活動する中で、全国紙の全ての1面トップ記事に、米陸軍、海軍の機密文書が米国立公文書館で公開、と大々的に報じられ、同資料調査のために米大学院留学を決意し、妻に伝えたところ、快諾してくれた。そこから活動家から研究者への大転換の人生が始まった。

●「アメリカ留学の出発にあたって」
 在米占領文書研究のために30歳で渡米した44年前の昭和55年3月に書いた手記に渡米直前の当時の切実な思いを次のように赤裸々に綴っている。

 <戦後史研究の実情>
 戦後30年を機に、これまで極秘扱いされてきた占領文書が、日米両国で解禁となり、各新聞社は一斉にワシントンD.C.取材班を送り込み、大々的にスクープ報道を行った。国内でも、外務省外交史料館によって、戦後外交文書が公開され、また国立国会図書館による米国立公文書館所蔵のGHQ/SCAP文書の複写収集作業が一昨年より7か年計画でスタートした。
 このような中にあって、多くの戦後史研究家がワシントンを訪れ、資料発掘に挑んできたが、そのほとんどがせいぜい1,2か月の滞在で十分な研究成果を上げ得ぬまま帰国の途につかざるを得なかった。
 その原因は、英文資料を猛烈なスピードで読み込んでいく語学力の不足もさることながら、ミカン箱大の占領文書(1箱に約3千頁の文書が入っている)が、10283箱もあり、しかもそれぞれの箱にどのような資料が入っているか、極めて大雑把な区分しかなされていないことによる研究の困難さにあった。
 メリーランド州スートランドにあるワシントン・ナショナル・レコーズ・センター(WNRC)にある占領文書は、総司令部の6年余にわたる占領行政の生の記録で、各担当官がファイルしていた史料が、そのまま箱詰され、米国に移送され、未整理のままここに保管されているため、特定の問題についての資料検索はほとんど不可能に近い。
 そこで、この占領文書の史料価値を重く見た日本の国会図書館が7か年計画で全資料をマイクロフィルムに収め、内容項目を整理して、日本に持ち帰ることを決めたが、資金と人材不足のため、大幅に実施が遅れているのが実状なのである。
 このように、かくも膨大な資料に本気で取り組もうとすれば、20年、30年の歳月を必要とすることは明らかである。しかし全くのフィクションによって塗り固められてきた今までの占領史、戦後史を根底から覆す”新事実の宝庫”がその検索が極めて困難であるという唯その理由だけのために、未開拓のまま放置され続けていいのであろうか。

<わがアメリカ留学の志>
 最初は興味半分で始めた戦後史の勉強であったが、研究の実態を知るにつれて、次第にこのような思いが、僕の魂の奥底から突き上げてくるのを強烈に感じるようになった。無条件降伏からポツダム宣言の有条件化を勝ち取る抵抗闘争を戦い抜いてきた護国の英霊たち(過日、秦郁彦氏の自宅を訪ねた折、秦氏が「特攻隊」が有条件化をもたらしたのだ、熱っぽく語られたのを忘れることができない)の、まさに生死を懸けた闘いの歴史を土足で踏みにじり、言葉の限りを尽くして、彼らを罵倒し続けてきたのが、戦後の歴史ではなっかたのか。
 「後に続くを信ずる」と言い残して死んでいった幾多の英霊たちは、今どういう思いでこの戦後日本の現実を見つめているのであろうか。秦郁彦氏が月刊誌『現代』2月号の「天皇を救った千通の手紙」(秦氏はわずか4日間のWNRC所蔵の「天皇ファイル}調査でこの論文を書き上げたという)で取り上げたような、天皇を守り続けようとした先人たちの、無数の美しい”民族の一大叙事詩”が、戦後の日本人に知らされぬまま、ワシントンの一室に放置され、眠り続けているのである。
 江藤淳氏が発掘した『戦艦大和の最期』の原資料はアメリカの学者の魂を揺さぶり、感動の涙を流さしめ、江藤氏の有条件降伏説は多くの共鳴と支持を集め、ポツダム宣言を逸脱した米政府の占領政策の不当性が、アメリカ人自身によって見直され始めている。江藤氏は学会での発表は、「吉田満とその戦友たちの霊を慰めるための、一つの鎮魂の祭儀でなければならない」と述べられた。
 占領政策の不当性を明らかにすることによって、戦後の虚構を根底から突き崩すために、どうしてもアメリカにある占領文書を掘り起こさねばならない。20年かかろうが、30年かかろうが僕はそのための一点突破口になろうと覚悟を決めた。その決意を父に伝えたところ、「史朗」という名は、史を明らかにする子に育ってほしいとの願いからつけたもので、いよいよ持って生まれた「使命」を果たすべき時が来たんだ、と語り、「若竹の伸びのさやかに 若鳥の羽ばたき高く 飛び立つ吾子は」という和歌を送ってくれた。

<米大学院留学の厳しい現実と決意>
 近年アメリカに留学する若者は急増しているが、そのほとんどが短期の英語研修か観光を目的としており、大学院を修了する者はごくわずか(3~4%)に過ぎない。…このような厳しい大学院でのコースワークに加えて、占領文書の発掘を行うことは時間的、肉体的にも至難の業である。コロンビア大学、ミシガン大学にも合格したが、「トラ・トラ・トラ」の原作者のプランゲ教授が持ち帰った「占領期日本出版物(検閲資料を含む)の宝庫」と言われる「プランゲコレクション」(江藤淳氏はこの中から『戦艦大和の最期』の検閲資料を発見した)と教育勅語廃止の口頭命令を行った「ジャスティン・ウィリアム・コレクション」のある州立メリーランド大学で学ぶつもりである。
 渡米を10日後に控えた今でも、アメリカに留学する自分の人生に不思議な戸惑いを覚えている。全く自分では考えてもみなかった人生の急展開ぶりに、何故こういうことになったのか、自分でも不思議でならないのが現在の偽らざる心境である。大学院に入ったのも高校教師になったのも、アメリカに留学するすることになったのも、考えてみれば、全て僕個人の好き嫌いの感情や意志から出たものものではなく、変革運動に没頭する中で、必然的にそのような生き方を迫られ、僕は戸惑いながらその中で懸命に生きてきただけなのであった。変革運動という1本のレールに乗っかって、ひたむきに全力で生き続けて、気が付いてみると、全く予想もしなかったところに運ばれてきているのを発見して驚いている。そんな人生であったような気がする。おそらく10日後には、ワシントンにいる自分を発見してびっくり仰天する羽目にになるだろうが、ともかく、変革運動を貫いている目にみえない意志によって僕の人生は一変させられてしまった。
 僕にとって、学園正常化運動の体験は、戦後という時代の貧困さ、我々の運動の貧困さ(恩師から「全学連と闘うのではなく、領導して下さい」と言われたことが僕の人生を変えた)、そして自分自身の貧困さに、心の底から泣き、悩み、苦しみ抜いた体験の連続であった。自分は、運動は一体何のために存在するのか一そういつも自らに問い続けてきた。答は一つ一祖国救済、国家変革のため、これ以外になかった。しからば、お前個人が、運動体が、真に祖国の状況を揺るがすに足る「変革力」を今現在有しているか否か、これこそが、我々の存在意義を決する、決していい加減に誤魔化すことは許されない、ギリギリの問いであった。このギリギリの問いに、僕は「否
!」と答えるしかなかった。そして変革を志す一人ひとりが確実に「変革の一点突破口」となるしか、祖国救済の道はないと確信するに至った。…いざ出陣である。

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