昭和天皇に「倫理」を講義した杉浦重剛の「理学宗」とモラロジー一ウェルビーイングとの関係

 廣池千九郎『新版 道徳科学の論文』第9冊に、「杉浦重剛先生の理学宗」と題して、次のように書かれている。

<杉浦重剛先生の道徳に関する考案はすこぶる卓越…英国に留学せられ、マンチェスタ大学及びロンドン大学に在学し、化学と物理学とを学び、傍ら哲学を学ばれ,1980年のころ、かねて英国文明の有様を見られて、人類の文明及び幸福は合理的なる道徳の発達にあることを悟り、物理学の法則を人間の行為の法則に応用して、道徳を説明せんとせられたのであります。…人間の道徳及び文明を進歩さする方法は合理的なる教育の力に俟たねばならぬものである。…人間の道徳的行為は幸福を生じ、不道徳的行為は不幸を生ず。その行為の累積の結果は物理学のconservation of energyに当たる。この故に中国の『周易』に「積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃あり」とあるは、人間の行為に対する一つのconservation of energyを説明せしものである。この考えを私(杉浦重剛)はひそかにこれを理学宗と名づけているのである。わが日本の皇室の万世一系は御歴代積善の結果にして、仁の字をもって御歴代の御諱に御用いあらせられて主権者の本体を仁となすに至る。この故にわが国体の尊厳は合理的のものである>

 杉浦は東宮御学問所で7年間、皇太子時代の昭和天皇に「倫理」、後に昭和天皇の妃・香淳皇后になる久邇宮良子女王にも「修身」の講義を行い、昭和天皇は「帝王学の基礎を教えてもらいました。今も尊敬しています」と回想されている。
 京都大学・京都女子大学教授の皇紀夫「杉浦重剛について」(『教育哲学研究』第54号,87-90頁)によれば、杉浦は「松陰精神の継承者」「我が国に於ける日本教育の元祖」で、独立の気風を武士道の「士魂」に求めた。

●杉浦が提唱した「理学宗」とは何か
 杉浦が提唱した「理学宗」とは、近代物理学の定則、「勢力保存論」と「波動説」とを原理として、自然現象から人間世界の歴史更には人間存在の規範にまで及ぶ普遍的法則の存在を主張するもので、「天地間ニ行ハル事件」を一元的に解明しようとする宇宙論的性格をもつ構想なのである。
 杉浦は「物理ノ定則ハ尽ク之ヲ人事ニ応用シ得可キモノト人信ズル」が故に、「道徳ノ大本」もまた理学の理論によって基礎づけられるべきであると主張した。杉浦は、西洋の近代的自然科学の知見と矛盾せずかつまた東洋的人間学の叡智から乖離することがない独自の原理を求め、易の理論に注目した。
 彼は易経をニュートンの「プリンシピア」に匹敵する自然科学的真理を示す書として評価し、もし今日の西洋科学の水準で易経が研究されたならば、「空前絶後ノ妙理ヲ発明」することができるかもしれないと述べている。
 「理学宗」の構想は、十分な理論的整合を経ぬままに未完に終わるわけであるが、東洋の伝統的な宇宙観が西洋の数学的合理主義を媒介として、人間形成の実践的原理として再生されようとした試みであり、「理学」に基礎を置いた道徳の成立を目指すモデルとして易経に注目した思想である。
 皇紀夫教授は、「この理学宗という宇宙論的な人間形成の理論の着想が、東西文明の統合(伝統と近代、道徳と科学との調和的な展開)という日本の近代化の課題に対するひとつの試みであったと理解することができる」と述べているが、「内面的道徳的人間の形成」「至誠一貫の精神的強靭さを育てる教育」「精神の力」を育てる教育と総括できる。

●「理学宗」と「四則和算」、モラロジーとウェルビーイングを問い直す
 noteの拙稿連載で取り上げてきた東大大学院の光吉「四則和算」、鄭雄一「道徳のメカニズム」、西田幾多郎哲学、出口康夫の「AI親友論」、伊東俊太郎の「場所論」、廣井良典の「地球倫理」などを杉浦の「理学宗(Scientific Morality)」の視点から見直し、廣池千九郎が「精神革命と科学革命の融合」を道徳的視点から図ったことの比較文明論的意義を明らかにする必要があろう。
 麗澤大学大学院の中山理特別教授によれば、廣池千九郎は、最高道徳の実践によりウェルビーイングが享受できると考えた。それを立証するためにモラロジーという学問を創設した。モラロジーとは普遍道徳と最高道徳の実質・原理・内容を比較研究し、その道徳実行の効果を科学的に証明しようとする一つの新科学である。
 最高道徳とは、天照大神、釈迦、孔子、イエスキリスト、ソクラテスの道徳系統に一貫した以下の道徳の原理を含んでいる。
⑴ 自我没却の原理:利己的本能
⑵ 神の原理:利己心を持ったままで神に幸福を求めるのではなく、利己心
 を没却して神の慈悲心を体得実行する
⑶ 義務先行の原理:権利発生の原因は義務の先行にある
⑷ 伝統の原理:幸福享受の根本要素:国の伝統・家の伝統・精神的伝統
⑸ 人心開発・救済の原理:物質的援助は一時的なもの
 幸福享受の普遍的対象は「世界人類の安心・平和・幸福(ウェルビーイング)の実現」にあり、「道経一体」の効果は、道徳によって経営における人間関係を変容させる点にある。中山によれば、廣池のウェルビーイング論を成立させる因子は、一般人のウェルビーイング感(人生満足度、主観的幸福感)ではなく、世界の諸聖人(賢者)の道徳的精神を基準とする哲学的アプローチである点が、ウェルビーイング追求の姿勢の相違点と言える。


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