三島由紀夫が訴えた「生命尊重以上の価値」「歴史と伝統の国、日本」

昨秋の4大学学生アンケート調査によれば、「自国が侵略されたら」「逃げる」が72%、「戦う」が17%、「受け入れる」が12%であった。数年前の自衛隊員の意識調査でも、退職後緊急事態の場合に再任用に応じると答えたのは、幹部は8割を超えたが、20代の陸士は約2割であったという。
 同じ質問に対して外国人留学生の9割以上が「戦う」と答えた。これらの極端な差は一体何故生じたのか?昭和45年11月25日、三島由紀夫は市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自決し、自衛隊員に訴えた「檄文」で次のように述べている。

●三島由紀夫の「檄文」

 「自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ」「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ」「われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇ることを熱望するあまり、この挙に出たのである」

 三島由紀夫は『文化防衛論』において、「豊かな音色が溢れないのは、断弦の時があったからだ」と指摘し、江藤淳は『閉ざされた言語空間』において、「占領軍検閲官が意図していたことは、生者と死者を結び付ける絆を切断し、日本人のアイデンティティーに致命傷を与えることにあった」と指摘した。
 私が在米占領文書研究のため3年間アメリカに留学した直接的契機は、高校時代の日本史の先生が「特攻隊は犬死だったんですね」と皮肉な笑顔を浮かべながら語ったことにあった。私はあの時の先生の言葉と皮肉な微笑を一生忘れない。この先生は一体なぜ皮肉な笑みを浮かべているのか、という根本的な疑問が沸き起こってきた。
 三島由紀夫は「いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのである」と述べたが、高校時代の私にも「愛する者のために命を捧げた」生き方に対して「犬死」と軽蔑することは許されないことではないかと思われた。

三井甲之「ますらおのかなしき命積み重ね積み重ねまもる大和島根を」

 『明治天皇御集』の著者である歌人の三井甲之(こうし)は、「ますらおのかなしき命積み重ね積み重ねまもる大和島根を」「みくに思ふおなじ心にあつまりし友らなつかしよびかはさなむ」「うたにうたひ何とはなしに言ひしれぬ思ひつたふるぞ日本精神なる」「ゆるみなきまこと心ことのはに溢れいづるぞ敷島の道」と詠んだ。
 高校の古典の教師であった私の父は自分の部屋を「敷島の間」と命名して、毎日和歌日誌を綴った。毎朝郷里である龍野市の敬老山に登り、街中に響き渡るような大声で「君が代」を朗唱する愛国者であった。
 昭和25年という占領下に生を享けた私に「史朗」という名前を付けた父の願いは「歴史を明らかにしてほしい」ということであったと告げられたのは、私が在米占領文書研究のためアメリカの大学院に留学する決意を電話で語った時であった。電話口で父が泣いていたことを私は一生忘れない。
 「特攻隊は犬死だった」と皮肉な笑みを浮かべる日本史の先生とは対照的な父は、坂本龍馬や橋本佐内などの偉人伝、歴史書を次々に私に読ませた。その結果、「愛する者のために命を懸けた」先人の名誉を守るために米留学を決意するに至ったのである。
 三島が強調した「武士の魂」即ち「武士道」と三井が強調した「日本精神」からの「精神的武装解除」を目指した「WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」や神道指令の成立過程、教育勅語の排除過程、祖国のために命を捧げた護国の英霊や国家的英雄を教科書や出版物から徹底的に排除した検閲文書を次々に発見して世に問うことができたのは、父の熱い願いのお陰であった。
 


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