服部英二「生きることの学び」一理性・感性・霊性の融合、共生の縦軸・横軸
服部英二・中島隆博・矢﨑勝彦編『公共する経営 みんなの幸せがわたしの幸せ』(東大出版会,2023)において、元ユネスコ事務局長顧問の服部英二麗澤大学名誉教授は、「生きることの学び」と題する論文の冒頭に、「世界中のひとがしあわせにならなければ、自分のしあわせはない」という宮沢賢治の言葉を引用しつつ、含蓄深い問題提起を行っている。
●トインビーの警告と教育に求められる「意識改革」
『歴史の研究』の大著で知られるトインビーは『人類と母なる大地』と題する遺稿集において、「母なる地球の子である人類が、もし母殺しの罪を犯すなら、その罰は自己崩壊であろう」と警告した。
その20年後の1992年に、「リオ・地球サミット」が開催され、人類がこのまま地球資源の簒奪を続けるなら、トインビーの予言通りになるという警告を発した。しかし、その警告をまるで他国の物語であるかのように忘却し、国家エゴに基づく市場原理主義経済を継続したため、人間によるエネルギー消費はついに地球の限界値を超えるに至った。
母なる地球の回復力は失われ、もはや人類は、ヨハネの黙示録に描かれた通りの終末に向かうほかはない様相を呈している。2015年に国連はSDGsという目標を掲げたが、気候温暖化によって熱波が襲い、消えない山火事が頻発し、巨大台風・竜巻が住宅を襲い、大洪水が都市を飲み込み、広大な大地が砂漠化し、多くの人々が飢餓に苦しむ事態が広がっている。
このような現実に直面している人類には、今、一体何が必要なのか?それは意識の「変容」であり、「意識改革」を行う教育である。では、その教育とは何かが鋭く問われているのである。
●マルセル『存在と所有』と「新しい資本主義」「人の資本主義」
自らの幸福は公共の幸福に繋がっていることに気づいた経営者と学者が結集して「京都フォーラム」という「場」が形成された。場所という概念は西田幾多郎以来、人間存在論の中核を占めるに至り、服部は二項対立を超越する「包中律」の論理を結ぶ「間の哲学」として「あわいの智」を提唱した。
理性至上主義に基づく「父性原理」ではなく、理性・感性・霊性の総てを和する、命の継承を至上の価値とする「母性原理」と「いのちの文明」への転換が必要である。。
17世紀の科学革命以来、人生の価値は「存在から所有に」シフトした。共に生きてきた母なる自然を自分という主体から切り離された「客体」としたのである。デカルトの「我思うゆえにわれあり」という二項対立の存在論によって、人間の理性によって自然を統御し資源として利用すべきものという「自然帝国主義」になった。
人間の価値判断はその人の人格=beingよりも、その人の所有物=havingに移ったが、ガブリエル・マルセルがその著『存在と所有』で指摘したように、存在と所有は反比例の関係にあり、「所有が増えれば増えるほど、存在は減少する」。そこで彼は「倫理資本主義の設立」を説いた。
日本の現政権が標榜する「新しい資本主義」が今日の危機的状況を打開できるものなのか、地球と人類自身の破滅を招いた「所有の文明」から人間本来の「存在の文明」に立ち返る可能性を秘めたものなのか、を検証しなければならない。「新しい資本主義」はこの40年間地球と人間を破壊し続けてきた新自由主義と決別し、「人の(顔をした)資本主義」に転換する必要がある。
●多様性に通底する価値と世界語「まこと」
1997年にユネスコの「21世紀のための国際委員会」が出した「人間開発のための教育の指針及び勧告」は、次の4本柱(三角錐の4つの頂点)を明示し、所有から存在への価値の転換が真の教育であると説いた。
⑴ 知ることの学び(学校教育での学び)
⑵ 働くことの学び(職場での学び)
⑶ 共に生きることの学び(公共を知る学び)
⑷ 在ることへの学び(全人性への学び)
この4つは並列ではない。まず第3の「共に生きることの学び」という言葉には、日本発の「共生」すなわち「共生き」の思想が込められており、この思想が国際社会に浸透していることがわかる。
第4の「在ることへの学び」が最も重要な概念であるが、究極の教育指針として発信されている。⑴から⑶が総合的に高められたのが第4の学びで、人が人として生きるための学びの場は理性のみならず、感性、霊性が伴った全人的な学び、「全人教育」の場でなければならない。
諸民族の文化の多様性の深層にはすべての民族に通底する価値が存在し、この4つの頂点から成る三角錐にはハーモニーがあり、世界の諸民族の心の深みにおいて響き合うダイナミック・ハーモニーを感じ、ホリスティックなアプローチによって、初めて人は自らの深層に潜むいのちの意味を悟ることができるのである。
服部によれば、「全人性のひらけ」が「まこと」であり、「まこと」だけが世界語であって、英語やフランス語は伝達手段であるが、そのいずれも世界語ではないという。
●感銘したパウロ教皇の言葉
実存は存在ではなく、共存在である、と自覚したマルセルは、人間を場と引き離すことはできないと認識していた。その場とは、単に在るbeingのではなく、人が生成するbecomingの場であり、さらに、絶えず生成するものとして、我々は、自己の生成が無数の他者のおかげで成り立っていることを知る。他者への思いやりは、そのまま他者への感謝を伴ったものでなければならない。
存在から生成へ、ここにもう一つの存在論への深まりがある。それは、「自己とはともにあるもの」であり、「自己は様々な他者のおかげでここに在る」という深い認識から生まれたものである。
服部は1979年にユネスコ本部を訪問したヨハネ・パウロ教皇の言葉に震撼したという。教皇は「人はARSとRATIOによって真の人となる」というトマス・アのナスを言葉を引用しつつ、「人間の存在と所有を根底から分けるのは文化=Cultureに他ならない」と述べたという。
教皇が人間とは理性的な動物であるというスコラ哲学的定義を越えて、存在と所有を峻別し、ARSという語によって情動も身体知も含む大きな「文化」という概念を打ち出されたことに深い感銘を受けたのである。「それは全体智=ホーリズムへの訴えなのだと聞こえた」と服部は述懐している。
●「共生の縦の線」を学ぶ場の創造
服部によれば、共生の思想は、「ともいき」という浄土宗に起源を持つ日本発の思想である。「誰一人取り残さない」というSDGsの標語にしても、その「誰一人」には遥かな未来のいのちが含まれているのか、考えねばならない。服部は、世界的にまだ欠けている視点として、「共生の縦の線」があるという。
浄土宗の「ともいき」の思想には、現存する個々人の「横の共生」だけでなく、祖霊たちとの「縦の共生」があった。過去の総てが現在のあなたに継承されており、無意識のうちにお盆やお墓参りを大切にする心に繋がっている。しかし、さらに今ここにいる私の中には、まだ生まれていないいのち、将来世代のいのちも現存するのである。
1992年、ブラジルのアマゾン河口でのセミナーで服部氏の前に座ったアフリカ代表は、「われわれはまだ生まれていないものとともに生きている」と語ったという。この人はいのちを一本の「生命の樹」と捉え、「共生の縦の線」を考えていたのである。
その言葉を聞いて、服部氏は文化勲章を受章した草木染の達人である志村ふくみさんが鶴見和子さんとの対談で語った次の言葉をを思い出したという。「わたしは花が咲いた枝からではなく、まだ蕾の枝から色のいのちをいただくのよ」。彼女には、草木の色は扱う客体ではなく、主体となって語りかける。「この藍は青になりたいと言っています」。
単細胞に始まり、幾億兆の姿への多様化を重ね、進化し、変容し、転生してきたいのちはすべて繋がっている。そしてすべてが相互依存の関係にある。Network of interdependenceの認識が「帝釈天の網」と言われるものであり、古代インド発のこの世界観では、個々人は一つの珠玉として存在するが、それがクモの糸のような見えない網によってすべて結ばれているのである。生命誌を提唱する中村桂子さんは、これを「わたしは私たちの中に居る」と表現した。
1980年、ジャック・イヴ・クストーは、未来世代には美しい地球を享受する権利があると「未来世代の権利」の請願運動を起こし、日本を含め世界で800万を超す署名を集めた。それは1997年、ユネスコ総会による「未来世代のための現代世代の責任宣言」として結実した。
こうした祖先から将来世代までの人間を考える時、教育もまた「累代教育」とならねばならない。それは「共生の縦の線」を全人的に学ぶ場の創造である。あの痛ましい東日本大震災の後、そこに生まれた自発的な人の絆から誕生した「花が咲く」という復興支援歌は美しく、私たちの心の琴線を深く揺さぶる。銃弾に斃れた安倍元総理がピアノ演奏する姿は忘れられない。「花が咲く」が美しいのは、その花は「いつか生まれるきみ」に咲くからである。
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